第2話



「天子様が兵を挙げられてな、楠木様が参向されるそうだ」

 女は興味なさげに、男の話を聞いている。


「戦の話か?」

 うむ。と男は話を続ける。


「だから俺もついて行く事にした」

「どこの世の人も戦が好きね」


 見ごろもうに過ぎた桜若葉の頃。その森の最奥で、男と女の逢瀬はきな臭い話に変わってしまった。



「好きでするわけじゃない。武士として、仕えるに足る主君の為に……とは言わんが、賭けられる種銭なんぞ、命くらいしか無いからな」

 気合の入った雄々しい言葉の後に、へにゃりとした本音を語って聞かせる。


「なら、その命を私にくれよ。大事にしてあげるよ」

「それも楽しそうだ」

 女の柔らかな笑みには何が含まれているかなどは愚問で。そんな女の姿に、男は持ち前の快活さを満面に表して笑う。


 しかし、すぐに笑うのを止め、真剣な顔で言いのける。

 


「このまま悪党で終わりたくない」

 


 身持ちを崩した武家の生まれ。 


 北山きたやまの左衛門之介さえもんのすけちか

 幕府にはうに失望しており、暗愚と名高い時の執権の専横には恨みしかないほどだ。



「まして、愛しい女に甘えて生きていけるものかよ」

「死ぬよりは。あなたが死んでしまうよりは」


 慧親は唇を引き締めて女を見つめる。


阿夜霞あやか……死なんよ。生きて貴女を迎えに来る」

ちか……」



 慧親は阿夜霞を抱きしめる。

 涙を流す阿夜霞を『よしよし』と言いながら、背中をトントンと叩く慧親の仕草と声が、阿夜霞はたまらなく好きだった。


「また子ども扱いする」

 拗ねたふりをするけれど、阿夜霞は幸せでいっぱいだ。


「お前は良く泣く子供と代わらん」


 そんな慧親の一言にも、阿夜霞は嬉しくて反応してしまう。

『ぶぅ』と頬を膨らませる顔は美人が台無しになるほど面白くて、慧親はその顔が大好きだった。


「また可愛い顔になっているぞ」


 頬を朱に染めて、阿夜霞は慧親にしな垂れる。

「こんな物の怪のような女に入れ込んで……あなたはどうするつもり?」

「多少の違いが有っても、人と大して変わらんではないか」


 優しい慧親の言葉に、阿夜霞はまた涙を溢してしまう。

 

 ──どうしてこんなに涙脆くなってしまったのだろう。 


 阿夜霞には分かっていた。けれど自問したくなるほどに自分がおかしくなっている事も、また分かっている。


 慧親に安心しきっているのだ。身を委ね、心を任せてしまえるほどに。


 人と変わらぬ。そう言ってくれた愛する男の言葉に、言いたくもない、おそらくは男も聞きたくはない言葉を返す。確認だ。それでも良いのか?と。


「……子はせないよ?」

 それどころか行為さえ。魔力の薄いこの世界では、精霊の体から、人の体に作り替える事はまだ出来ていない。

 元の世界なら一瞬で出来るのに、と歯痒く思う。


「まだ、今は。だろ?」

 コクリと阿夜霞は頷く。


「いつまでかかるか……」

「気にするな。子供が欲しいなら兄者からもらってやる。九人目が生まれるそうだ。一人や二人、気前よくくれてやる、と言ってたぞ」


『まぁ』と上品に笑う阿夜霞に慧親は『約束する』と抱きしめる。


「武勲を上げて、迎えに来る」


 阿夜霞はもう何も言わなかった。


 武士には言えない。

『そんな武勲ものよりも、傍に居て抱いていて欲しい』なんて言えないから。


 ちかが大事にしたいものなら、自分も一緒に大事にしたい。そう思った。




 睦み合う、なんて言うのも烏滸がましい。せいぜいが抱き合う程度。

 けれど阿夜霞はこの時が幸せで。慧親の為に、この地から離れないと決めた。


 異世界の精霊は枝垂桜を依り代に、元の世界の古い名前を捨てた。





 慧親と阿夜霞の笑いあう声は、この日を境に聞く事は出来なくなった。


 代わりに阿夜霞のため息と、こっそりと声を殺した泣き声が静かに響く。




 § § § §



 

 泣くのも、もういた。

 なら、恨みでもすれば気が晴れるのだろうか?


 阿夜霞あやかは首を横に振る。



 ちかに逢えなくなってから、もう何年たっただろうか。

『ふん』と鼻先で笑い、欺瞞だと吐き捨てる。


 分かっている。何年どころではない。何百年……でも千年は過ぎてはいないだろう。


 好きな気持ちは募るばかり。



「別の世界……元の世界……」

 渡ったところで、慧親はいない。


 ひょっとしたら、慧親はまだ生きていて。うっかりしてるだけで。

 ここで待つ意味もあるんじゃないか?と阿夜霞は思ってしまう。


 同時に愚かだな、とも。


 ここから離れられなくなっている。それだけの事だ。



 恨みや憎しみや悲しみや寂しさで。鬼にも蛇にも成れれば気が晴れただろうか。


 いいや、違う。

 募るのは愛しさだけ。

 募るのは慧親が居ない足りなさだけ。


 どちらかが満たされれば、もう片方も満たされる。


 ちかとの恋は、それだけ純粋で美しかったのだろう。


 精霊が人の体に変えてまで、愛してやりたいと思えるほどに。




 阿夜霞の周りを精霊達が飛び回る。

 枝垂桜を依り代に決めてから、この地で生まれた精霊達。


 楽しそうに笑いあう。


 ──この子達は慧親を知らない。


 慧親が戦に出てから生まれた精霊だ。


 ──知らないって、幸せなんだな。


 思ってもいない事を阿夜霞は考えてしまった。


 ──すまない、慧親。知らないほうが良かった。なんて、思ってないから。



 急いで否定するが、阿夜霞の心に罪悪感は残ったままだ。


 



 事の起こりはいつも不意で。予兆なんて一切なくて。


 ガサガサと足音。枯葉と下草を踏みしめる音。

 慧親が帰ってこないと諦めた時から、結界を越えて入ってくる者を気にも留めていなかった。


 いや、そもそもが、慧親以外が入ってこられる場所では無いのだ。

 ならば結論は!


ちか!」

 絶叫にも似た叫びは、頭で確信するより早く声になった。

 しかし……確かに発したはずなのに。


 その小さな侵入者には届いていなかったようだ。


 何も聞こえない様に、ふらふらと歩いている。


吉一丸よしひとまる……?」

 その姿形。顔つきや歩き方……『ふふっ』と阿夜霞は笑ってしまった。


「遊び方まで同じとは」


 一面の桜に見惚れ、くるくると回り始める。

 ──ああ、吉一丸はそれで眼を回して倒れたんだ。


 阿夜霞は少年の傍まで飛んで行き、支えてやろうと手を伸ばす。触れた感覚は確かにあるのに、少年は気が付かない。


 結局すぐに仰向けに倒れそうになり、阿夜霞と精霊たちが『危ない』と手を尽くす。


 ふんわりと地面に倒れ込んだ少年は、それを不思議とも感じずに仰向けに眼をまわしている。


 心配になった阿夜霞が少年をのぞき込む。少年は阿夜霞が見えてない様に阿夜霞の向こう側を見詰めている。


 徐々に少年の焦点が合っていく。

『はっ』と気が付いた様に眼を見開く。


 やっと気が付いてもらえたと阿夜霞は嬉しくなる。



「さくらのてんじょう!」


 少年が叫ぶ。

 仰向けになって眼にした空を覆う様な一面の薄桃色の景色。それは初めての衝撃的な美しさだったのだろう。

 興奮して、見たままの事を叫んでしまったようだ。


『なんと可愛らしい物言いだ』と頬を緩ませたのも少しの間の事で。

 現実に起きている事に愕然としてしまう。


 ──私が見えていないのか?


 そうでは無いかと、思ってはいたが……そうだと分かってしまった今、阿夜霞の失望は計り知れない。


 慧親だと思った。そうでなくても吉一丸かと。

 違う事はすぐに分かった。そうだとしてもだ。


 ──でも見てさえもらえ無いなんて!


「気が付いてくれさえすれば!思い出してくれるかもしれないのに!」

 声にする気などなかった。

 その声にも気が付かない少年を見たくなかったから。


 そして、やはり少年は気が付かない。



 落胆し、思考する。


 ──なら何故ここに居る。何故入って来た。


 阿夜霞は自分の記憶から抜け出してきたかのような少年を見つめる。


 慧親なら、吉一丸よしひとまるなら気が付いてくれた。『物の怪か!』と怒鳴りつけてきた。迷子のクセに。

 

 別人でも、精霊と相性のいい存在なら見えるはず。触れられて気が付くはず。

 なら、違うのか?疑問は一つも解消されない。

 

 けれど、ここに居る精霊たちは、この少年を一目で気に入った様子。

 早くもまとわりついて、一緒に遊んでいる。と言っても精霊達が勝手に、なのだが。 


 人間にだって、それには影響がある。気が付かないにしろ、きっと楽しい思いをしているはずだ。

 またここに来て欲しいと、精霊たちが頑張っている。


 たった今、生まれた子までもが。その子は『急げ』とばかりに飛んで行った。


 ──私が一目で吉一丸を気に入ってしまった様に。か……


 わからないでもない。その子に惹かれている自分が居る。そう阿夜霞は思った。

 この子の為にここで待っていたのかも。と思ってしまいそうになるほど。


 ──精霊と相性が良いのは間違いない。でも、なら……私を見てくれよ。


 吉一丸よしひとまるのような、その眼で私を見て。と願ってしまう。


 別人だとは、分かっているのに。

 心がまだ追いつかない。


 急な侵入者は、あまりに阿夜霞の心を露わにしてしまって。




 少年は、起き上がり歩き出す。


 一直線に枝垂桜の方へ。意思のある。目的のある歩き方で。


 阿夜霞は急いで先回りして、枝垂桜の下で待つ。


『ここに来てくれる』それは予感ではなく確信。

 何をしてくれるのだろう。何かを語ってくれるのだろうか。

 阿夜霞の胸は高鳴る。



「とてもきれいだね」

 少年はそう言って、枝垂桜の幹に抱き着いた。


 子供の戯れだ。他意はない。綺麗だからそう言葉にして。好ましく思ったから抱き着いた。

 きっとそのはず。それだけのはず。


 奇跡なんて、簡単には起きないから。


 まして奇跡それを起こす側の精霊たる阿夜霞が、奇跡それを期待してしまう事など有り得ないのだから。


 それでも。

 それでも阿夜霞は泣いてしまった。感じてもらえないと知っていて、幹に入り込み、少年を抱きしめた。


 何百年も待った。待っててよかった。


 慧親とは違う、この少年。そう分かっていても、心が満たされる。



 幹に抱き着く少年と、少年に抱き着く阿夜霞。抱き合っている様に見えなくもない、そんな二人。


 阿夜霞が何百年も待ったその人では無いのだろうけれど。その人ではないと、誰が言える?



「ここに来て、私を抱いてくれる人が他に居るものか」



 思いを少年に聞いて欲しくて。

 無駄だなんて事は、もう分っている。


 それでも、ただ……ここに少年が居る。それだけで幸せだった。


「もうどこにも行くな」


 殊更に強く抱きしめる。けれど優しく。

 少年は、『んふふ』と気持ちよさそうに笑っているだけ。


 その笑顔が、可愛くて。



 阿夜霞はまた恋に落ちてしまいそうだと、予感した。


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