Fiore[連作短編]〜「百合一輪」

車椅子の白猫

第1話

百合一輪 令和四年1月三十一日起筆鈴木茂雄

僕が「傷痍軍人」に思いを馳せたのは確か戦後の混乱期を描いた小説を読んでいたときだったのかもしれない。普段見ない厳つい漢字に目が惹き寄せられたのかもしれない。

 僕の住んでいた雪国では傷痍軍人どころか浮浪者(今風に言うならホームレス)の姿さえ見られなかった。おそらく雪国では冬場を乗り越えることが難しかったのだろう。

 その頃の僕は駅の西側に暮らしていたが、学校に行くバス停は駅の東側にあった。

 だから僕は毎日その地下道を通るしかなかった。

 彼はそこにいた。

 壁にもたれて、左脚のズボンを縛った彼はあきらかに普通の人には見えなかった。

 軍帽の下の淀んだ瞳は子供の僕にも彼の体験の片鱗を感じさせるのには十分だったかもしれない。

彼の前の牛乳瓶には一輪の百合の花が生けられていたのを鮮明に覚えている。

 毎日通う通学路の怪人はそれから一週間ほどは同じ場所にいたことは間違いない。


地下道は年がら年中妙に生暖かく、左右に掘られた溝はいつでもチョロチョロと汚水が流れて、お世辞にも衛生的とは言えなかった。

 ところがいつの間にか彼の姿を見かけなくなった。

 彼のいた場所には百合を生けていた凝乳瓶が汚れた溝に落ちていた。

その瓶に寄り添うようにして萎れた百合が汚水の中で靴跡に汚れて萎れていたのを覚えている。

 彼のいなくなった地下道は相変わらず生暖かく、中華屋の換気口からの炒飯の匂いが漂っていた。

金魚屋の水苔で汚れた水槽の中には優雅に金魚が泳ぎ回り、脇のタライには糸ミミズが蠢いていた。

 ふいに僕は胸が締め付けられるような気持ちを感じていた。彼の前には給食で使うような小さなアルマイトのお椀が置かれていて、小銭を乞うのが目的だったに違いない。でも小学生の僕にはバスの定期は持っていても彼に差し出すお金は持っていなかった。

 ただ、彼に僕のような小学生がお金を差し出すのが正しいことかはわからなかった。

 それが悔しくて悲しくもあり、瞳から涙がこぼれるのを止められなかったのである。

その日は半泣きで帰宅して布団をかぶって寝入ったようで、次の日に叩き起こされるまで昨日のことはすっかり忘れてしまっていた。

 ただその後は地下道を通る度に妙に胸がざわめいていたかもしれない。




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