応援コメント

第361話 良い『小説』ってやっぱりわからない。╭( ๐_๐)╮と、一人称を見直すの巻。」への応援コメント

  • すごく悩んでいて、真摯に向き合っている米太郎さまに惹かれます。


  • 編集済

     かなり長くなってすいません。
     まずは一つ目の話題に関してです。

    > 小説って、もっと端的に、あったことを並べるだけでいいのかもなと。

     小学生の頃、中学受験のための進学塾で国語の時間に習った中に「『小説』は『詳説』ではない」というのがありました。もう何十年も前なのに覚えているのは、よほど印象的な言い回しだったのでしょうね。
     その先生としては、同じ「しょうせつ」という読み方で上手いことを言ったつもりだったのでしょう。『小』と『詳』の違い。国語の授業だったので書く側ではなく読む側の問題であり、小説を読む際に「小説は詳しく書かれてはいないぞ」「だから言外のニュアンス、行間を読むことが大切だぞ」という話だったと理解しているのですが……。
     いざ書く側に回ってみると、これは「詳しく書きすぎてはいけない」ということで、大切なアドバイスになりますよね。
     それを踏まえた上で、私は敢えて破っています(笑)。一般的な「小説」と「web小説」では事情が違うだろう、と考えて。
     ある意味読者を信用していないことにもなるのですが「しょせん無料のweb小説。どうせ私の作品を読んでくださる方々も、商業作品ほど熱心に読んでくれるわけじゃない。ならば言外のニュアンスを感じ取ってもらおうとか行間を読んでもらおうとか期待するより、パッと見てわかるよう、なるべく詳しく明記しておいた方が意味が通じやすいはず」という考えです。
     感想欄などで「意味がわからない」と言われるのが嫌ですからね。そんな否定的なコメントをたくさんもらったらストレスになるだろうし、基本的に趣味で書いているweb小説でストレスを増やしたくはない。だからわかりやすさ優先というのが私の基本スタンスです(それでも文章下手な私の場合わかりにくい部位は多いみたいですが)。
     ただし、あくまでも「私は」という個人的な話なので、一般的に「商業化を目指す!」みたいな作品ならば、やはり「詳しく書きすぎてはいけない」というのが原則なのだと思います。米太郎様の『もっと端的に』という言葉を見て、改めてそんなことを考えました。

     ただ「端的に」といっても、米太郎様自身も『端的に書くだけだと、下書き感がある』とおっしゃっているように、例えば描写なども削り過ぎたらプロットとかあらすじみたいになってしまいますよね。
     実はこの「描写」というのも私はよくわかっていなくて、以前はそれこそ「高い木々が生えている」「緑の葉っぱが生えている」みたいに色や形を客観的に説明するのが描写かと思っていたのですが、ある時、文芸系の自主企画で「きちんと描写のある作品を」と言っておられる企画主様の話を見てみたら、その方の考えている「描写」というのは、そこに感情のこもっている表現らしい。
     なるほど、例えば嫌な出来事が続いた主人公が出てきて、空を見上げて「灰色の空が広がっていた」という「描写」があったら、読む側の私は「ただ『雲が空を覆っている様子』が記述された」と感じるのではなく「『灰色』というネガティブイメージもある言葉で『空』を認識するほど、主人公は憂鬱な気分なのだな」と感じるかもしれません。これならば「主人公は憂鬱な気分」という直接的な記述なしで、それを言外のニュアンスとして感じられることになり、これが上述の「行間を読む」にも繋がるのだろう、と思いました。行間を読ませる書き方ならば、その分だけ記述も減って、その分だけ端的になっているはずですよね。
     ……あまり上手い例ではないでしょうが、そもそも私自身が出来ていないことですからね。「詳しく書きすぎてはいけない」「端的に書く」というのは、なかなか難しい話ですね。


     続いて二つ目の件です。
     私にとっての「読書」は元々推理小説で、謎解きパズルみたいな楽しみ方でした。パズルだから俯瞰的な見方をするというだけでなく、迂闊に登場人物の一人に感情移入してもその人物が犯人だったりしたらバッドエンドですから、その意味でも自然に「俯瞰的な見方」になっていました。
     一方、web小説って違いますよね。チート無双とか人生やり直しとかが流行るのも、読者が主人公に自分を重ねるほど強く感情移入、共感しているからこそだろうと私は思っています。
     一つ目の話題の中で『一般的な「小説」と「web小説」では事情が違う』と書きましたが、これもその一つ。そういう読み方をする読者が多いのがweb小説だからこそ、web小説では一人称が向いているのだろうとも私は思っていて……。
     だから文学作品の「伊豆の踊子」とか、最初から商業出版されているラノベとかとは違うのではないか、と。web小説で人気になって(あるいはwebコンテストで受賞して)そこから商業化というのであれば、文体や表現方法も読者が感情移入しやすい方がいいはず、と私は考えています。
     その意味では米太郎様の

    > 私は小説書く時、主人公になり切って書いてる感じなんですよ。

     というのは、まさに最適な書き方なのではないか、と思いました。
     米太郎様自身は「作者が楽しむだけだと、読書さんは楽しくない」と判断してそれを放棄しようとしているみたいですが、作者が主人公になりきるからこそ、読者も同様に自分を重ねられるのではないでしょうか。
     ほら、直近のコンテスト「第2回G’sこえけん」では惜しくも受賞は逃したものの、中間選考は通過できたのですよね? しかも、あれの中間選考は「読者選考によるランキング上位作品と編集部からピックアップされた作品が」という方式でしたから、読者選考みたいなもの。そこで通過した以上は読者評価も高かったはずであり、上述のように「読者が感情移入しやすい文体だった」というのも一因だったのではないか、と私は想像しています。つまり、

    > 良い文体を手に入れていたと思っていたのは私だけ

     ではなく、本当に良い文体(求められている作風に適した文体)だったのではないか、と。

     私自身は感情移入しやすい文章を書くのは苦手ですし、自分が出来ないことに関してあれこれ言うのはおこがましいとは承知していますが……。せっかくそれを出来る人が「これは違う」とやめてしまうのは勿体なあ、と思うのでした。