意地悪なおばさん

石花うめ

意地悪なおばさん

 水曜日の夕方。

 仕事を終えて帰宅した私は、お隣の佐伯さんと玄関先で偶然会った。


「あ、佐伯さん、こんにちは」


「こんにちは」


 花の水やりをしていた佐伯さんは、私に近付いてきた。

 そして辺りを見渡すと、ため息交じりに言った。


「今日もあのおばさん、新聞紙を持ち去ったみたいよ」


「またですか」

 私はすぐに、何の話か理解した。

「いつものことですけど、やっぱり大村さん、困った人ですよね」


 私が言うと、佐伯さんは「ほんと」と言いながら大きく頷いた。


 私が住んでいる小回町三丁目の住宅街では、以前からゴミの持ち去りが問題になっている。それが顕著になるのは、二週間に一度ある新聞紙の回収日。

 ちょうど今日がその日だった。


 本来なら、各家庭の玄関先に出された新聞紙を、ゴミ収集時に業者が回収して、代わりにトイレットペーパーを一つ置いていってくれるはずだ。

 しかしここ何年かは、資源が持ち去られてしまうのが原因で、私や佐伯さんの家の玄関先にトイレットペーパーが置かれていないことが多々あった。


 犯人は、大村明代おおむらあきよだ。


 大村は、私や佐伯さんの家と同じ並びに住んでいるおばさんである。年齢は五十を超えたくらいだと思うが、ぶくぶくと太っていて詳しくは分からない。長い髪はいつもぼさぼさ。洗いすぎて生地がすり減ったような、薄いピンクのワンピースを着ていることが多い。


 私は心の中で、大村のことを「大ババア」と呼んでいる。

 大村という苗字と、太っている体型をかけたものだ。もちろん、佐伯さんの前でこのあだ名を口にすることはないが、それくらい嫌いな存在だ。


「不燃ゴミの日に、私が家の前に出してたフライパンを持って行ったこともあったしねぇ」

 佐伯さんが言った。


「ひどいですよね」


「そのとき私、二階からこっそり見張ってたんだけど、さすがに気味が悪かったわ」


「一度、役所か警察にでも相談した方がいいかもしれませんね」


「ほんと。久米川さんも気を付けて」


 佐伯さんは水やりを済ませたらしく、私に手を振りながら家に戻った。


 私は大ババアの家を睨んだ。比較的新しい家が立ち並んでいるこの住宅街にポツリと建っている、薄汚れた古い平屋。以前はたしか空き家になっていたはずだが、いつ頃からか大ババアが住み始めた。不法居住なのではないかと、私は未だに疑っている。そうではないとしても、早く立ち去ってほしいものだ。


 ちなみに私の家の前には、今日もトイレットペーパーが置かれていなかった。

 ちゃんと新聞紙を出しておいたはずなのに。


「ただいま」


 少し嫌な気持ちになりつつ家に入ると、長男の友彰ともあきがリビングでテレビを観ていた。そういえば、今日は友彰の小学校が一斉下校の日だった。


「おかえり」

 友彰は私に近付いてきた。

「ねえねえ、いま玄関でどんなお話してたの?」


「ちょっと、大村さんの話を、ね」


「ああ、あのおっきいおばちゃんのことか」


「今日もまた、新聞紙を持って行っちゃったらしいの」


「ふーん」

 友彰は首を傾げる。

「なんでゴミなのに、持って行っちゃダメなの?」


「それはね、そういうきまりだからだよ。新聞紙を出すと、本当はトイレットペーパーを一つもらえるはずなの。でも大村さんのせいで、私たちはトイレットペーパーを貰えてないんだよ」


「それはダメだね」

 私がため息をつくと、友彰が「でも、」とつぶやいた。

「もしかしたら、おっきいおばちゃんは、困ってるんじゃない?」


「困ってる?」


「うん。きっとお金がなくて、トイレットペーパーが買えないんだよ。だから、うんちがふけなくて、困ってるんだよ」

 いつもテレビで観ている名探偵を真似るように、友彰は顎に手を当てて言った。


「そっか、そうかもしれないね」


 私が言うと、友彰は私の手を握った。


「だからね、お母さん! おっきいおばちゃんを助けてあげてね」


 友彰の純粋な優しさに触れて、私は少し泣きそうになった。どんな人にも手を差し伸べる人に育ってくれたことが嬉しい。

 それに、友彰の今の言葉を聞いて、この問題の解決策が分かった気がする。


 欲しいならあげればいい。逆転の発想だ。


 私は次の新聞回収の日から、それを実践することにした。




 二週間後の水曜日。

 私は資源ゴミとして出すはずだった新聞紙の束を持って、大ババアの家の前に来た。

 大ババアの家に自分から尋ねるのは、もちろん初めてのことだ。


 緊張しながら玄関のドアをノックすると、大ババアが姿を現した。この世の終わりみたいに不機嫌な顔をしており、私と目を合わせた途端、さらに目を尖らせた。


「な、なんですか。こんな朝早くに」


 警戒心むき出しの、突き放すような言い方だった。


——お前はいつも朝早くから人の家のゴミを持ち去ってるだろうが!


 心の中ではそう叫んだが、なんとか口には出さず、「ごめんなさい」と断ってから続けた。


「他人の家の新聞紙を集めていらっしゃるようですが、わざわざ集めるのも大変だと思いますので、新聞紙を持ってきました」


 私が新聞紙の束を差し出すと、大ババアは一瞬ひるんだ後、それを両手で突っぱねた。


 「要りません!」


 私は思わず後ろに倒れそうになった。


「——それに、私が人の家の新聞紙を集めているですって? 言いがかりはやめなさいよ!」


 大ババアは強めの口調で言ったが、彼女に勝ち目はない。私の家の防犯カメラには、資源を持ち去る大ババアの姿が映っているからだ。これはハッタリではなく事実である。それに、佐伯さんをはじめとした近隣住民の被害者は大勢いる。

 大ババアにそのことを伝えると、バツの悪そうな顔で新聞紙を受け取った。


「もしお困りでしたら、持ち去るのではなく、言ってください。近所に住む者同士、助け合っていきたいと思っていますから」


 私がとどめのセリフを言うと、大ババアは「ふん!」と鼻を鳴らした。

 そしてすぐ家の中に消えてしまった。


——勝った! 大ババアに。


 長年嫌な思いをさせられてきた大ババアに、ついに一矢報いることができた。

 しかも私は何も悪いことをしていない。善い行いをして、大ババアの間違いを正したのだ。

 私は心地よい興奮と爽快感を覚えた。




 その日以降、私は新聞紙の日以外にも大ババアの家に資源を持って行った。

 もちろん、生ゴミやプラスチックゴミを持って行くようなことはしない。そんな嫌がらせをしたら、大ババアとやっていることが変わらなくなってしまうからだ。あくまで大ババアの役に立ちそうなもの——新聞紙をはじめ、段ボールや古着、使えそうな不燃ごみなど——を持って行った。


 最初は拒んでいた大ババアだったが、毎日私が何か持って行くものだから、次第に抵抗しなくなっていった。

 そのうち「ありがとう」とお礼を言うようになり、資源を置くために家の中や庭まで入れてもらえることもあった。


 少しずつだが、大ババアは確実に更生し始めている。

 こんな簡単なこと、どうして思いつかなかったんだろう。

 大ババアが生活に困っていることは、見た目からして分かっていた。だったら最初から、こうして手を差し伸べておけばよかったんだ。そうすれば、大ババアも資源を持ち去らなくて済んだのに。私も嫌な思いをしなくて済んだのに。

 いつの間にか私は、優しさというものを忘れてしまっていたらしい。




 私が大村さんの家に資源を出しに行くようになって二週間が経った。

 今日は新聞紙の回収日だ。


 大村さんの家に行こうとして、佐伯さんの家の前を通り過ぎようとした時のことだった。新聞紙の束を持った私は、玄関から出てきた佐伯さんと目が合った。


「佐伯さん、おはようございます」


「おはようございます」

 佐伯さんは不思議そうな顔で私を見た。

「新聞紙持って、どこに行くの?」


「大村さんの家ですよ」


「え?」

 佐伯さんは明らかに私の行動を怪しみ始めた。素早く私の横に来ると、「どういうこと?」と小声で尋ねた。


「どうせ玄関先に新聞紙を置いていても、持ち去られてしまいますよね。だから、私の方から持って行ってあげることにしたんです」


 佐伯さんは少し驚いた顔をした。

「文句とか言われない?」


「大丈夫ですよ。むしろ喜んでくれています」


「そう……」


「佐伯さんも、大村さんの家に資源を持って行くのはどうですか? 意外と喜ばれますよ」


 しかし佐伯さんは、「いやいや」と言いながら顔の前で手を振った。

「何かあると怖いから、私はやめておくわ」


「そうですか。では、私一人で行ってきますね」




 それから日に日に、大村さんの家の中や庭に資源が溜まり始めた。


 私以外にも、大村さんの家に資源を持って来る人が現れたのだ。

 そのうち、私からの資源の受け取りを大村さんが遠慮するようになった。しかし、私は諦めずに資源を持って行った。


 断るなんて水臭い。貧しくて困っているなら助けてあげなきゃ。


 徐々に溜まっていく資源の分別を、私から志願して手伝うこともあった。

 それなのに。


 大村さんは、ある日突然姿を消した。




 それから数日後、少し肌寒い日のことだった。


 仕事から帰った私が晩ご飯の支度をしていると、友彰が帰ってきた。


「おかえり」


「ただいま、あのねお母さん!」

 私の元へ駆け寄ってきた友彰は、興奮気味に言った。

「今日寄り道してたらね、あのおっきいおばちゃんを見たんだよ」


「え、どこで見たの?」


「五丁目の、おっきい橋の下! 橋の下で寝てたんだ」


 私はドキッとした。

 大村さんがいなくなった後、私は後悔していた。正義面して大村さんの家を資源まみれにしたのは、さすがにやりすぎた。近所の人たちは大村さんがいなくなった理由を憶測で語っていたが、一番心当たりがあるのは、やはり私の行動だった。


 冷や汗が止まらない私にお構いなく、友彰は無邪気に話を続ける。


「でもね、おっきいおばちゃんね、寒そうに寝転がってたんだけど、たくさんの新聞紙をお布団の代わりにしてたから、あったかそうだったよ」


「……そうなんだ」


 それから友彰は、満面の笑みで言った。


「お母さんのおかげで、おっきいおばちゃん助かったね! よかったー!」

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