第25話:幼い肩

その夜、静音は一人部屋を抜け出し、白水宮の庭園へと来ていた。

 一人とはいえ、近くに狗々裡がいるのは分かっている。ほんのり甘く香る小さな花の絨毯が広がっているのを眼下に眺めつつ、独り言を言うように語りかけた。


「私が戦えるようになるまで、一体どのくらいかかるのでしょう」


 力なく言う声に、答える声は無く。不安になって名前を呼ぶと、背後から足音が近付いてきた。

 やはり、いるんじゃないか。口元を緩めて静音は続けた。


「王宮で何もせず育った私が、果たして武人となれるのでしょうか?兄を救うためとはいえ、白水の方々の足を引っ張る事にはなりませぬか」


 落ち着ける場所に着いたことで、緊張の糸が一気に切れてしまったらしく、静音の両の目からは大粒の涙がこぼれていた。

本当に、妖を相手取った戦いなどという大それたことができるのだろうか。抱える不安の大きさは計り知れず、嗚咽する静音は今やただの少女に過ぎなかった。

 そんな中、背後から迫る足音は、彼女の真後ろでぴたりと立ち止まると、おもむろに彼女の頭を優しく撫でた。


「大丈夫だ、そなたは自分が思うより心が強い」


 そう言った声は、想像していた人物のものではなく。驚いた静音が慌てて涙を拭いて振り返ると、そこには白水首長の姿があった。


「首長殿」


 恥ずかしさから顔を真っ赤にして静音がうつむくと、星影は静音の隣に座り、快活な笑い声を上げた。


「そなたの精霊ではなくてすまないな。ただ、あまりにも悩んでいるようであったのでつい」


 そうして、彼は静音の背中をぽんぽんと叩き、元気づけるように続けた。


「私でよければ、話を聞くが」


 穏やかな声は、首長というより、一人の青年のものであった。正しくは青年ではないのだろうが、静音はその横顔に、無意識に兄を重ねていた。


「申し訳ございませぬ、私は、自分の成すべき事をしかと成すことが出来るのか不安なのです。選択を間違えれば、兄様──ひいては人の世までも失われるかもしれぬなど」


 静音の声がひきつって上手く話せないのを、星影は黙って背中をさすりながら話を聞いていた。そうして彼女が言葉を終わると、星影は彼女の両肩に手を載せるとゆっくりと口を開く。


「そうだな。そなたのこの肩に、これほどの重荷が乗ることはこれまでに無かったことだろう」


 穏やかな、しかし力強い口調で、星影は続けた。


「そなたは、確かに強くならねばならぬ。しかし、その責任全てを自分のものと思い込むな。そなたには精霊も、応舟の娘も、この白水の里もついているのだ。そなた一人で抱え込むことは無い」


 そうして彼はにっかと笑うと、静音の頬に伝う涙を繊細な指で拭ってやった。


「そなたはまだ幼いから理解できぬかもしれぬが、そなたの周りには支えになる者たちがいる。無論、この年寄りとてそうさ」


 冗談めかして言う星影に、静音はくすりと笑ってみせた。


「まだお年寄りではございませぬ」

「若いのは体ばかりさ。忠海にはよく頑固親父だと言われる」


 そう言った星影の言葉に、二人は顔を見合わせてけらけらと笑いあった。

静音には、星影の気遣いが嬉しかった。思えば、庭園は星影の私室のすぐそば──きっと、静音の声を聞いて出てきてくれたのだろう。ようやっと涙も落ち着いた静音は、すっくと立ち上がって優しい首長に一礼した。


「お心遣い感謝致します、首長殿。聞いていただいてすっきりしました」


 その言葉に、星影は辺りを見回す真似をして答える。


「話したくなったら言ってくれ。それより、早く退参せねば精霊にそなたをたぶらかしたと気付かれてしまうかな」

「狗々裡さんはきっと今も傍にいますよ」


 悪戯っぽく静音が言うと、星影は慌てて部屋へと戻っていった。

 そうして、それを見送ってからなのか、少し時間を置いて狗々裡が目の前に姿を現す。


「俺は傍にいない方が良いか」


 少し不機嫌そうに言う狗々裡に、静音は首を横に振ってみせた。


「いえ、あなたがいてこそ、私はここまで来られたのです。いつも傍にいてくれないと困ります」


 この場所に来たのだって、本当は狗々裡とゆっくり話ができると思ったからだ。静音は少しはにかみつつ、ぱんと手を叩いて踵を返した。


「さて、戻りましょう、狗々裡さん。明日からは稽古も付けていただくのですから、早く休まないと」


 その背中は、今はまだ小さいけれど。それでも、あと何年か経てば、少女は立派な指導者になるだろう。狗々裡はそんな予感を胸に、先を歩く静音について歩き始めていた。

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