第22話:精霊と妖
白水の里は先ほどまでののどかさとは一転し、緊迫した空気に包まれていた。
首長である星影が倒れ、白水宮の中は混乱の渦中である。首長はすっかり月も頭上にかかる刻限だというのに意識が戻らず、あれやこれやと薬湯を準備する医者達の表情にも焦りが見え始めていた。
そのさなか、静音一行は星影の治癒にあたる部屋を離れ、忠海に連れられ休憩用に用意されていた客間で状況の改善を待った。
「くそ!精霊、首長の倒れた原因もお前なら分かるんだろう?何とかならないか」
忠海は藁にもすがる思いで狗々裡に懇願するが、彼の返答は渋いものであった。
狗々裡が静音の元へ姿を現したのは、星影が倒れた直後であった。双白に静音に付き従う自分の存在を悟られないようにとの事であったが、姿を見せなかったことがかえって忠海の不信感を煽っていた。
「そもそも、お前は本当にあの双白とかいう奴の仲間ではないのか?双白を妖と糾弾しつつ、お前自身が妖ではないという証拠もない」
「おやめ下さい、そんな言い方!」
静音は咄嗟に反論したが、忠海は腕を組みつつ渋い顔をした。
「王の精霊が妖なのだから、王女の精霊だってわからんだろう。第一、貴方がたが里へやってきたその日にこのような事になったのだからな」
そう言ってから、忠海は大きくため息をつき「すまない」と眉間を揉み込む。彼なりに首長の側近として責任を感じているのだろう、きつい事は言いつつその表情は不安げである。
彼の放った矢があと少し遅ければ、首長の命すら危うかったかもしれない。そう思うと、静音も自身の言動の迂闊さを恥じた。
きっと自分が祝福の石の近くであんなことを言ったから、双白の“影”を呼んでしまったのだ。静音がうつむいていると、隣に座っていた彩瀬が不安そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「しかし、さっき見たあいつ──あの、石から出てきた光が双白って奴なんだろ?本当に、あいつが国王の精霊なのか」
その質問には、部屋の入口で番をするように
「王の精霊となった当初は、もう少しまともだったのだが。少なくとも、その当時はあれも穢れてはいなかった」
部屋の外からは、医者や侍女たちのせわしない足音が絶え間なく響く。その音から意識を背けるように、忠海は腕を組み直して狗々裡に尋ねた。
「そもそも、精霊だの妖だのと言うが、お前たちの差はなんだ?どちらも秘術を使い、人の命を食らう存在ではないのか」
一部の人間以外には、ほとんど関わりのない存在。それは忠海にとっても例外ではなく、首長が精霊──正しくは“精霊だったもの”の祝福を受けていたとはいえ、実際に忠海が精霊と相見えたのはこれが初めてのことである。
そしてそんな質問を受け、狗々裡は少し考え込んだ後、腰元の徳利を目の前に置いて言った。
「そうだな、例えばこの徳利が精霊だとする。水が入っているうちは精霊と呼ばれるが、この中に墨を入れれば中身は穢れ妖となる」
狗々裡が徳利を手に持ち揺すると、中の水が、ちゃぽ、と音を立てる。訝しげな表情で忠海が見つめる中、狗々裡は淡々と続けた。
「これが水の入った徳利なら水を提供し、人を癒すことができる。しかし墨の入った徳利では、衣を黒く染め汚し害する事しかできない。双方は全く異質な物であるが、お前たちは目の前の徳利の中身を器に空けるまでわからない。妖と精霊の違いも同じことだ」
そう言うと狗々裡は、口元を歪め笑った。
「精霊は大地に呼応し生まれ、大地の秘術を使い、そしてその力は人間の感情や大地の生命力を糧とする。反対に、妖は大地と相容れぬ存在故に秘術を使うことがままならず、黄泉に在る意志を持たぬ怪物や穢れ人を使役することくらいしかできん。生きる為には、双白がここの首長にしたように他の生命を食らうようになり、次第に理性は崩壊する。魂が穢れ続けるからな」
静かな声で狗々裡がそう言うと、黙って話を聞いていた彩瀬が口を挟んだ。
「じゃあ、あんたはどうなのさ?飯も食わねえでどうやって生きてるのか不思議だったんだけど。あんたは人間の寿命を食ってる、って訳でもないんだろ」
徳利を腰元に戻しつつ、狗々裡は目を細めた。
「俺は精霊として、お前たち人間と共に在る。俺は人の欲を糧とする精霊、この世に人間の欲が尽きぬ限り在り続ける」
「じゃ、不死身ってことか」
「それに強い欲を感じるほど力は強くなる。お前たちが俺を頼れば、それだけ俺の糧となる」
その言葉に、静音は最初に狗々裡と会話した日の事を思い出す。
〈俺の糧は、人の欲だ〉──そうは言っていたが、あの言葉はそういう意味だったのか。静音が納得していると、彩瀬は何とか話を理解しようと難しい顔をして狗々裡を見つめていた。
そんな中で、忠海は狗々裡の言葉を咀嚼するようじっと考え込んだのち、重々しく口を開いた。
「しかし、それではあまりにも曖昧な表現ではないか。穢れがあっても見た目が変わらないのなら、相手が妖だと判断する基準はなんだ?言い伝えでは、精霊は天上の世界を治め、妖はその穢れから醜い姿で黄泉に縛られ、魂を食らうために現世に現れるという。お前の言葉が真実なら、精霊の姿のままの妖が、穢れを持ったまま天上にすら存在しているという事になるじゃないか」
半ば混乱しながら質問する忠海に、狗々裡は言葉を選ぶよう、ゆっくりと答える。
「実際、双白の座は未だ天上に在る。言い伝えなど人間の勝手な解釈さ。“精霊信仰”も妖が黄泉から生まれるという俗説も、元はと言えばお前たち人間が〈神没〉の罪を忘れないよう定めたもの。自分たちの頭でも解りやすいように定義づけたのだろう」
最後の言葉に少々むっとしたようではあったが、忠海は反論をこらえていた。彩瀬も難しい顔をしていたが、やがて考えるのをやめたように、板床に大の字に寝転がって唸っていた。
どうやら、精霊と妖の関係というものはそう単純ではないらしい──誰もがそう感じ始めたところで、忠海は頭を掻いて言う。
「しかし、その双白が穢れて妖となったのなら、天上の精霊は何故双白を始末しない?穢れは精霊にはわかるんだろう?地上を支配しようとする妖など放っておいたら大惨事になるというのに」
それには、狗々裡も苦い顔をしていた。
「所詮、精霊は神ではない。精霊の一人が穢れ、少しばかり異常な存在になっても地上を手に入れる切り口になるのなら利用価値があるということなのだろうな」
「あんたもそうなのか」
間髪入れず尋ねた忠海に、精霊は肩をすくめて答える。
「生憎、天上は俺の領分ではない。俺は黄泉の精霊だ」
そしてそう答えたところで、狗々裡は話を切り上げるようにため息をついたのだった。
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