第15話:いつか見た見知らぬ夢

 静音は、気が付くと一人草原に立っていた。いつここへ来たのか、ここがどこなのかはわからない。ただ、足元には青く生い茂る足首丈程の背の低い草があり、見上げると頭上には夕焼けのような、はたまた朝焼けのような雲一つない桃色の空が広がっていた。

 辺りを見回しても木の一本すら生えておらず、自分の位置を確認できるような目印も無く。辺りになんとなく「すみません」と呼びかけてみるも、声は彼方に吸い込まれるばかりで、なんの返答も無かった。

 この景色に見覚えもなく、静音はたちまち不安になり、何度も何度も誰かいないかと声を上げてその場にしゃがみ込んだ。

 ここは、一体何なんだろう。空気は甘く香り、風は生暖かく、来たことのない場所なのに驚くほどに居心地はよい。この場所で昼寝なんかしたら、きっと気持ちいいだろう──気を紛らわすため柄にもなくそんな事を考え、これではいかんと静音は自身の頬を叩き気持ちに喝を入れていた。


 すると、それから少しして、行くあてもなく草原を歩く彼女の背後から突如声が流れてきた。

「ようやく逢えた」

 その声に驚いた彼女が慌てて振り返ると、そこには純黒の衣に身を包んだ男が立っていた。


「あ、あなたは誰です」


 慈愛のようなものを含む柔和な笑みをたたえたその男は、くせのある肩くらいの長さの髪を風に揺らしながら答えた。


「いずれわかるかもしれぬ。今はただ、私はお前の顔を見に来ただけだ」


 どこかで見たことがあるような気はするのだが、それがいつの事かも、どこで会ったのかもわからない。静音が頭を捻っていると、男は小さい子供にするように、彼女の頭を撫でた。


「お前は何にも変わっていない。幼くて、脆くて、愛らしい」

「一体、貴方は」


未だ彼の正体がわからないままむっとして男を睨み付けると、男はけらけらと楽しそうに笑い声をあげた。


「その眼だ、その眼。お前のその強い眼が良い」


 そしてそう言うと、静音の傍から離れた男は片腕を広げ、そして甲斐甲斐しく深いお辞儀をする。静音が不審げに見る中で、彼はそんなこと気にしていないというように、再びにっこりと笑った。


  *    *    *    *


「──い。おい、起きろ、おい」


 場所は変わって、森の奥深く。静音が眉間にしわを寄せて眠る傍らで、少女が必死に彼女の頬を叩いていた。


「静音、起きろったら」


 静音は肩を揺さぶられ、ようやっと意識を現実に戻していた。うっすらと目を開けると、呆れたような少女の顔、そして朝焼けの残る青空が見えた。

ここは、一体どこだったろう?寝ぼけ眼を擦って体を起こすと、先ほどまでいた草原は影も形も無く、代わりに深い森が広がっていた。

 そうだ、昨日はここで野営をしたのだったか。のそのそと重い体を起こすと、少女──彩瀬が苦笑しつつ腕を組んでいた。


「もうばてちまったのか?まだ応舟を出て三日しか経ってねえのに」


 そう。旅の仲間に応舟海兵隊長の娘である彩瀬が加わり、応舟を出て三日が過ぎていた。

海兵隊を遊び相手に育ち、体力のある彩瀬にとってはどうという事のない三日かもしれないが、森の中で寝泊まりをしたり、しっかりとした温かい食事もない旅には慣れていない静音にとってはかなり体力を削られる日々である。

 だからといって、疲労を理由にこんな森で昼まで寝ているという訳にもいかず。静音はうんと伸びをして、辺りをきょろきょろと見回す。そしてその意味を察知した彩瀬は、森の奥を指差して言った。


「狗々裡なら食い物を探しにいってくれてるよ。静音が起きる頃には戻るって言ってたけど」

「そうですか」


 起きてもなおぼんやりとしている静音の脳裏には、うっすらと先ほどまで見ていた夢の断片がこびりついていた。

 不思議な草原に、謎の男。自分を知っているような口ぶりではあったが、夢から覚めてしまうとその顔は全く思い出せなくなっていた。

 あれは、ただのつまらない夢だったのだろうか。静音が深刻な顔で考えを巡らせていると、彩瀬は心配そうな目で彼女の顔を覗き込んだ。


「おいおい大丈夫か?さっきも怖い顔して寝てたけど、腹でも壊したか」


 あまりに彼女が真剣に心配するので、静音は慌てて笑顔を作り首を横に振った。


「いえ、ただ変な夢を見たもので。半分くらい内容は忘れてしまいましたけど」

「なんだそりゃ」


 静音の答えに、彩瀬は安心したように笑みをこぼした。そして静音に近くの小川で顔を洗うよう言うと、彼女自身は昨晩囲んだ焚火に枝をくべ、火を起こそうと奮闘を始めるのだった。

 本当に、ただの夢だったのだろうか。静音は洗顔に来た小川の冷水を手にすくいつつ、夢の内容を必死に思い出そうとした。けれど追えば追うほどあの景色は遠く、不確かなものになっていく。何か言われた気がするが、その言葉はすっかり記憶の彼方に消えてしまっていた。

 しかし、ただの夢であるなら、こんな事を考えてくよくよしている場合ではない。狗々裡も彩瀬も働いているのだ、自分もなにかしないと──そう気合を入れ直して顔に思い切り冷水をひっかけた静音は、近くで食べられそうな物を探すことにしたのだった。

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