第5話:疑念

「いつまで寝ている」

 そんな凛とした声に起こされ、ようやっと静音が目を覚ましたのはまだ日の出前の事であった。

 寝ぼけ眼で声のする方を振り返ると、既に起きていた狗々裡くぐりが腕を組みつつ待機している。

「いつまでと仰いましても、まだ日の出前ですよ」

 静音はそう少し不機嫌そうに答えるも、そんなのお構いなし、といった様子で狗々裡は部屋の窓から外を眺めて言った。

「もう日の出は近い。日が昇ってからでは動きづらくなるだろう」

 そして、彼はどこから持ってきたのやら、宿に来たときには持っていなかった小ぶりな麻袋、そして水の入った徳利を静音の枕元へ置いた。

「必要な資金と最低限のものは仕入れた。もう随分王宮陥落の噂が町に流れている、昨日言ったように自分の身分は悟られるなよ」

 どうやらすぐに出発する、と言いたいらしい。静音はぼんやりとした意識の中、仕方なしに重い体を起こすと、狗々裡の用意した品々の仕入れ先を気にしつつも急いで支度をするのだった。


 手早く身支度を整えて部屋を出ると、廊下や玄関付近には多くの宿泊客が身支度を済ませて行き交い、受付には出発手続きを待つ客の列があった。宿屋の仕事とはこんなに朝早いものなのかと感心していた静音に、女将は「この町が昼夜問わず客の来る商業の町だからだ」と教えてくれた。

 そして女将に出発の見送り代わりに、と朝食の握り飯を手渡されたところで、二人は宿屋を後にする。最後まで女将が狗々裡を睨んでいたのが気がかりだったが、町の大通りを歩きつつ握り飯を頬張るころには、そんなこともすっかり忘れてしまっていた。

「狗々裡さんはお召し上がりには?」

 一向に握り飯を手に取らない狗々裡に静音が心配そうに尋ねるも、彼は全部食え、と言うばかりで食事を摂ろうとはしなかった。どうやら、精霊は人間と同じような食事をまるでしないらしい。静音は少しがっかりしつつも、せっかくのちゃんとした食事を無駄にするまいともらった分の握り飯は貰った時に包まれていた経木きょうぎにそのまま戻して後で空腹になった時の為に残しておくことにした。

 狗々裡曰く、次の目的地は今いる町より北東に一日ばかり歩いた先に位置する職人街、とのことである。話によると、そこへ行けば質のいい武器も、剣や弓矢の使い方に慣れた戦いの師も数多くいるとのことだ。

「お前はまず、自身の身を守る力をに入れねばならん」

そう言って狗々裡は、握り飯を頬張る少女の肩をぽんと叩いた。驚いて彼女が振り返ると、狗々裡はうっすらと射す朝日の中で目を細める。

「驚くことではないだろう。これから王宮を相手取った戦いをしようというのなら、まずは戦うすべを学ぶべきだ。ましてやこれより先の道中、俺の力だけでは守り抜けんかもしれん。今だって──」

 そして、彼は朝日の彼方に目を向けたまま、一歩身を引いて。遠くから何やら騒がしい雑踏が聞こえ始めると、そのまま狗々裡は静音の背中を押し出し、鋭い視線を彼女へ向けた。

「走れ!」

 そんな指示に未だ彼女が戸惑っていると、雑踏は無数の馬の足音へと変わり、町の奥で砂埃が舞い上がるのが見えた。方向的に見て、昨日二人が歩いて来た道──どうやらあの漁村の方からやってきた集団らしい。

 お前は狙われている。そんな狗々裡の言葉を思い出し、静音はとっさに狗々裡の衣の裾を掴む。

「狗々裡さんも行きましょう」

 しかし彼は険しい顔のままで、その手を振り払う。

「俺はここであれの相手をする。お前が戦えるというならともに行くが」

 遠くに見える騎馬隊の掲げる旗は、離れた位置から見ても静音には見慣れたものである。

 白蓮王宮軍の旗。静音は少しここで待っていれば、彼らが自分を連れ帰って保護してくれるのではないかというわずかな願望を抱いたが、狗々裡の視線の前では彼に従い少しでも遠くへ逃げるよりほかなかった。

 少なくとも、彼の言う事が全て真実なら、あの騎馬隊が自分の元へたどり着けば命はない。静音は狗々裡に短く礼を告げると、意を決して町を抜け、北東の森へと駆けて行った。


 そしてその背中を見送ると、狗々裡は改めて騎馬隊のやってくる方へ向き直っていた。

 騎馬隊は五人ほどの少人数ではあるが、そのいずれの兵も上級兵の鎧を身に着けていた。選りすぐりの兵に、王族討伐の命が下ったわけか──狗々裡は目の前で止まった馬上の兵を見上げつつ、ため息をついていた。

「そこをどけ、この先に国家に反逆した王族が逃げ込んだはずだ」

 騎馬隊の隊長と思しき男が、苛立つ声で言う。やはり、静音の事は町でも噂になっているらしい。往来の商人が数人すれ違いざまに訝しげな顔を見せる中、狗々裡は毅然とした態度で微動だにしなかった。

「なんのことだ。王族と知り合うほど高貴な身なりに見えるか」

 自嘲気味に言うと、王宮兵の頭と思しき人物は、腰元の刀に手を添えて声を荒げる。

「貴様、我らをからかっているのか!この場で命を落としたくなければ、早急に道を開けよ」

 そうして抜かれた刀は狗々裡の鼻先まで迫っていたが、彼は平然としたままで立ち尽くす。その様子に王宮兵も恐れを感じたのか、騎馬隊長と思しき男は震える手で刀を握り直していた。

 上級兵とはいえ、所詮は実戦経験のない者ばかりか。狗々裡は目の前の刃を見据えつつ、そう余裕の笑みを浮かべていた。

   *    *    *    *

 森へ入った静音は、なるべく騎馬隊から離れようと一心不乱にその舗道を走り続け、もはや入口が見えなくなったというところで疲れ果てその足を止めた。

 王宮での一件以来、走ってばかりだ。静音は息を整えつつ、その場にぺたりと座り込む。

 本当に、あの場に残してきた狗々裡は大丈夫なのだろうか。狗々裡が精霊とはいえ、頭数が違いすぎる。秘術を使えるらしいが、あの数の兵を本当に相手にできるのだろうか。冷静になって考えてみると、不安な点は数多くあった。

 そして、何より彼女にとって、実際に王宮兵が追手としてやってきたことが辛かった。森の木々の隙間から射す朝日を受けながらも、彼女は膝を抱え込む。

 自分に、帰る場所はない。そう実感しつつ辺りを何気なく見回していると、静音の来た道の方で男の叫び声が上がった。

「狗々裡さん」

 まさか。ごくりと息を飲んで腰を上げた静音の耳に、再び声が響いてくる。

 一人、二人、三人──それぞれが違う声を上げ、ようやく声の正体が狗々裡でないことを悟り、安堵する。どうやらうまく戦っているらしい。

 だが、そんなことを考えていた静音の脚に何かが触れたことで、彼女はそのままの体勢で硬直してしまった。

 足元にいたのは、小柄な蛇である。静音は思わず声を上げそうになるも、蛇は幸いなことに彼女を噛むことなくそのままするすると森の奥へ這って行った。

 蛇の姿を目にした静音の脳裏に、数日前の記憶がよぎる。追いかけてくる大蛇、丸飲みされた兵士たち、捕らわれた兄。一気によみがえる記憶の中の森と、いま立っているその場所が頭の中で溶け合う。

独りぼっちで逃げて、逃げて、逃げて──何者かに追われているような感覚にとりつかれた静音は、錯乱状態の中でその場から再び走り出していた。

追手はどんどん来る。あの大蛇だって、また現れるかもしれない。今みたいに、狗々裡がいない状況下に置かれたら、自分などひとたまりもないだろう。静音の中に、次々と不安が生まれていった。

 そもそも、本当に兄は生きているのだろうか?重い足を引きずって走りながら、静音は疑心暗鬼になる。

もし、狗々裡が本当は味方などではなく、自分を捕えるため誰かに遣わされた存在だとしたら。兄や父の精霊の話が、自分を引き付ける為の根拠がない嘘だとしたら、これから自分はどこへ連れていかれるというのだろう──考えれば考えるほどに疑念は膨らんでいき、静音の心には深い影が生まれていた。

 そうだ。今だって、本当に自分を守って戦ってくれているという保証は無いのだ。静音はそう思い足を止めると、今まで進んできた道から脇の獣道へと進路を変える。

 どうせなら、自分の身は自分で守ってもいいではないか。もし道中で死んだとしたら、それだけの命だったと天命を受け入れよう。逆に、狗々裡が本当に自分の精霊なら、どこにいようとも必ず自分を探し見つけてくれるはず。静音はそう頷くと、黙々と獣道を進むのであった。

     *    *    *    *

 獣道は途中で大きい舗道へ通じ、ただただ歩き続ける静音はその道中で何人かの行商人とすれ違った。なんでも、この道の先は海岸へと繋がっているらしく、海岸沿いには移民によって作られた、応舟おうしゅうという村があるらしい。話によれば、その村は働く事ができる若者なら誰でも受け入れてくれるらしく、家の無い孤児などが多く住んでいるとの事である。

 静音にとって、その情報は喜ばしいものであった。早くも身を落ち着ける場所が見つかるかもしれないという期待に、村へと向かう足取りは軽くなっていく。

 そうだ、王宮の事はすっかり水に流して、自分を隠し、新しい人生を送ればいい。見つかりそうになれば、住処を変えて生きていけばいいじゃないか。

いくらか明るい気持ちになった静音は、ふと後ろを見やる。狗々裡は、追いかけては来ていない。まだ自分を見つけられていないのか、本当に精霊などではなかったのか。不安が再び浮上するも、静音は首をぶんと横に振ってそれを振り払った。

 もしかしたら本当に狗々裡が自分を探しているかもしれないと思うと良心は痛むが、構うものか。多少の後悔を抱えつつも、静音は死の恐怖を振り払うように移民の村へと歩を進めるのだった。

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