第4話:狗々裡(くぐり)という精霊
森の廃墟を後にした静音と
静音は宿という場所は初めてであり緊張していたが、女将の柔らかい笑顔に幾分かほっとしていた。しかし、あちらこちらで聞こえる白蓮王宮陥落の噂を耳にする度、いつか誰かが自分の存在に気付くのではないかと自然と身体をこわばらせてしまう。
そんな様子を見て、心配そうに顔を覗き込む女将に、静音ははっとして笑顔を作る。しかし女将は勘ぐるように、目を細めて狗々裡の方を見やった。
「あんたら、親子って間柄ではなさそうだけど、いったいどういう関係だい?さっきからこの子怖がっているじゃないか」
どうやら、身売りかなにかと勘違いしているらしく、女将は下手な事しようもんなら衛兵を呼ぶ、とまで言っていた。
このままでは宿に泊まるどころか、かえって目立ってしまう──そう思った静音がどうしようかと悩んでいると、狗々裡は何食わぬ顔で懐から硬貨の詰まった革袋を取出して女将の前に置いてみせた。
「宿代はこれでいいか」
宿というものを知らない静音にも、女将の表情からその硬貨袋の中身が宿の代金を大きく上回るものであろう事は簡単に見て取れた。そして静音が何も言えずにいるうちに、女将は物言いたげながらも口をつぐみ、やがて宿の二階にある客室へと案内されたのであった。
狗々裡の言動に戸惑いつつ部屋に入った静音は、ようやく一息つける場所にたどり着いた安心感からかどっと疲れを感じていた。それもそのはず、廃墟から近くの町とはいえ、半日近くは歩き通しである。その間何も食べずにここへ来て、倒れなかったのが不思議なくらいに空腹感を覚えていた。
そして静音に続き入室した狗々裡はというと、彼女とは打って変わって疲れの色ひとつ見せずに壁際に腰を下ろしていた。
「狗々裡さん、あのお金はどうしたのですか」
静音が入口付近の柱にもたれかかりつつ尋ねると、狗々裡は面倒そうに息をついて答える。
「人間には見当もつかん方法で手に入れた」
まあ予想はしていたが、どうやら合法的な方法ではないらしい。
静音は眉間にしわを寄せつつ、契約相手をたしなめようと思ったのだが、その硬貨に助けられた事実がある以上それからは何も言えなかった。
しかし、改めて考えると、この狗々裡という精霊には多くの違和感を感じる点がある。
第一に、精霊は普段人前には姿を見せないと聞いていたのだが、先ほどの女将の反応を見ても分かるように狗々裡はその姿を公にさらしている。ましてや足元は裸足である、目立つことこの上ないではないか。
第二に、静音は狗々裡から精霊の祝福たる宝石を授かっていない。これでは、本当に彼が自分と契約したのかさえも信じがたい──そう感じた静音が以上の点を当人に問い詰めると、狗々裡は表情を変えないままで答えた。
「姿を消せば、お前にも俺を知覚できなくなるだろう。そして契約の証を形ある物として授けるのは、契約相手の周囲の者に精霊の存在を知らしめる為、というのがほとんどだ。俺の存在はこうして目に見えているからその必要はなかろう」
そう言った狗々裡の言葉に納得させられつつも、静音は少し残念に思っていた。
父も兄も、精霊との契約の証は宝飾品として身に着けていたものだから、静音もいつか大人になればああいった物が手に入るのだと密かに楽しみにしていたのだ。
自分だけの宝珠を得る感動は、いかほどのものなのだろう。幼き日に持ったそんな夢が、まさか精霊当人に砕かれるとは予想外であった。
そしてそんな思いを知ってか知らずか、狗々裡は静音から離れ、入口横の壁際に片膝を立てて座り込んでしまった。
「俺はここで番をしながらこれからの事を考える。お前の飯はもうじき女将が運んでくるはずだ。食えるうちにたんと食っておくといい」
「狗々裡さんはお召し上がりにはならないのですか」
近づいてそう尋ねるも、目を閉じた狗々裡の返事はなく。こうなれば仕方なしと、静音は黙って女将が来るのを待つのであった。
狗々裡が「たんと食え」と言った通りに、食事はなかなか豪勢なものであった。
高級食材を使っている訳では無いが、王宮の食事にも負けず劣らず品数が多い。そのほとんどが山菜料理ではあるが、その一つ一つが絶品であった。
結局狗々裡は食事時にも側には来ず、すっかり日が落ちろうそくの薄明かりだけが頼りの室内、王宮を出て初の食事は独りで味わう事となってしまった。
本当に、この狗々裡という男、謎が多い。静音は改めてそう思った。
自分が思い描いていた精霊像とは全く違い、だからといって、王宮から離れた村に自分を運ぶ秘術を見せたあたり「実は人間でした」などという事も無いだろう。夕食を摂り終え久々の満腹感を堪能しつつ、静音はそっと彼の傍へと近づいた。
「どうした」
「いいえ、なんでも」
くせのある漆黒の長髪は、触れば伸びて自分を絡め取ってしまいそうで、静音は手を伸ばしかけてすぐに思いとどまる。
──本当に、精霊が自分の目の前にいる。そう思うだけで、静音は自分が悪い夢の中に閉じ込められているのでは、という気さえしていた。
ましてや、その精霊が自分に父の精霊を倒すように言うなど。しかしそれが静音にとっては紛れもない現実であり、頼れるのはこの謎めいた男ただ一人だけなのだ。彼女はそう再認識すると、狗々裡の体に押入れから取り出した布団をかけてやった。
「精霊は眠らない。布団は要らん」
「それでも、夜に冷えると困るでしょうから」
不思議そうな顔をしてため息をつく精霊に静音はそう頭を下げつつ、自らも彼と少し離れた場所に布団を敷いて眠りについたのであった。
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