第一章【亡国の王女と謎の精霊】

第1話:王宮陥落

かつて、世界は三つに分かれていた。

ひとつは、天上の世。ひとつは、現世うつしよ。そしてもうひとつは、黄泉の世に。


天上の世は現世より高次に座し、肉体を持たない精霊が住まう場所であった。そこには老いも病も無く、永遠の楽園があるとされていた。

現世には大地があり、人間や、多くの肉体を持つ生命の命の輝きに満ちていた。

黄泉の世は世界の最下層に座し、地上で死して肉体を離れた魂が最後に行き着く所とされた。その中心を分断するように流れる河の向こうは「彼岸」と呼ばれ、死せる魂以外の者には立ち入ることの出来ない、不可侵の領域とされている。

それぞれの世界には、それぞれの住人がおり、天上は精霊、地上は人間、黄泉は死せる者の魂──そのそれぞれが、自らの世界で互いに深く干渉することなく暮らしていた、はずだった。

しかし精霊たちが秘術の力を会得し、人間たちが知識を、文化を得た時代を境にして、その境界は、徐々に不確かなものになっていったのである。

そうしてその境界が破れ、決して関わり合う事のなかった精霊と人間が接触したことにより、世界の均衡は崩れることとなった。

精霊が地上へと干渉し、その命の糧とするために大地の生命力を彼らが食らうほど、大地の生命力は貧相になった。

精霊は痩せていく大地を見て憂い、結果として、次第にそれを人間の生命力や、欲望などの強い感情で代用するようになったのだ。

人間の願いを叶える代わりに彼らのそういった感情を、精霊が食らう。しかし生命力の枯渇した大地の邪気や人間の果てない欲望が、穢れとして大地に、精霊の魂に蓄積した。その渦中からはいつしか「妖」と呼ばれる、生物とも精霊ともつかない穢れた存在が、この世界に生まれ落ちることとなったのであった。


* * * *


白蓮国はくれんこく──その国は何千年も前、地上にありながら、まだ“白蓮国”という名前すら与えられていなかった頃には、天上に住まう精霊と人間が手を取り合い生きる国であった。

人は誰もが人智を超えた精霊に導きを求め、精霊はその願いを秘術をもって叶える。そしてその見返りに、人間の精霊へと向けられる強い信仰心、並びに地上に在る森羅万象の生命力をわずかながら吸収してその永遠の生を生きると言われていた。

しかし、そんな世界にもある人間が登場した事により、精霊と人との関わりは希薄になってしまう。

白蓮という名を土地に与えた初代国王が、即位の際に自らの家臣、そして国民へ宣言したのである。

「私の生は私の母から、父から受けた私だけのものであり、生きる道もまた私だけのもの。お前たちも、自分の生を生きたくはないのか?もう精霊の定めた道を歩くのは終わりにしよう。あれらは尊い存在であるが、われらの神ではない。ここ白蓮は、私が王である限り人の国だ。間違った道かもしれないが、その間違いこそが、われらが人の子である一番の証なのである」


 その号令に、当時精霊の導きを良しとしていなかった家臣たち、そして新王の即位を見守っていた大勢の国民は一気に湧き上がった。そうしてそれから間を置かずして、国王を中心とした〈人〉の軍と、反旗を翻され怒りに燃えた精霊たちの軍は長きにわたる戦争状態に巻き込まれていったのであった。


 戦の結果は、〈人〉の惨敗に終わった。風、炎、水の流れや天候を操る精霊には地の理において敵うはずもなく、多くの国民を亡くした王が涙ながらに降伏したのを合図に無意味な争いに幕が下ろされたのだ。

 精霊は国王を殺さず、同じ過ちを犯さぬよう歴史を後世に伝えよ、とだけ言い残してその大半が地上界との関わりを絶ってしまう。

 ただ、この戦いの戒めとして彼の血を引く王家の人間に限りは精霊の監視下に置き、代わりにその力を貸すと約束を交わし、結果として国民たちが精霊の導きを請うことは二度と無くなってしまったのだ。

 生き残った人々は絶望したが、結果的には王の望んだ〈人の支配する国〉は現実のものとなった。

この戦いは、後世まで色褪せる事無く語り継がれ、いつしか人々が自らの神を失った戦い──「神没しんぼつ」という名で広く知られる事となった。


そして時代は移ろい、人々の中からは「神没しんぼつ」の記憶が薄れ、それらは次第に寓話の出来事だと思われ始めた。

しかし、「神没」より千余年後、時代は大きく揺らぐ。はじまりは、白蓮国の王宮──


    *   *   *   *


「父上、昨夜、私の元にようやく精霊が訪れました」

 白蓮王宮の一室、多くの王が先祖に国の現状を報告してきたとされる肖像の間。正面に備えられた華美な祭壇を囲むように歴代国王の肖像画が画廊のように並ぶその部屋は狭く、明るい少年の声は壁に反響した。

 少年の年頃は十四、五か、幼いながらも横に立つ父である白蓮国王に負けず凛々しい顔立ちをしている。父王は先代の肖像の前で目を伏せつつ、息子の言葉に深く息をついた。


「そうか。して、精霊はなんと」


 王が顔を上げると同時に、冠の金細工が涼やかに鳴る。王の喜びを口元の笑みから感じ取った少年は、嬉々として答える。


「私が王族としては優しすぎる、と。しかし、王になりうる広い器は持っていると言い、私に力を貸すと契約しました」


 丸い目を細めて喜ぶ息子に、父はもう一度「そうか」と言い大きな手でその頭を撫でてやる。

父親らしく接するのは、もう何年ぶりだろうか──側室との間に生まれた子である彼とは、しばらくこうして会うこともなく、会話すらしていなかった。


正室との子が不幸な事故により他界して以来、王はずっと世継問題に頭を悩まされていた。王位第一継承者であった正室との息子がいなくなると、必然的に次男である側室の息子がその立場を継ぎ、正室の立場が下になってしまったのだ。

 さらに運悪く、正室はその後子宝に恵まれず、次第に王の来訪を拒みふさぎ込むようになっていた。しかし、王は父となるのも遅く、もうじき退陣を考える年。正室に懐妊の兆しが表れない限り、側室の子とはいえ彼を王の器として育てるより仕方が無かった。

 そんな中、彼の報告は沈んでいた王の心に明るい光を射すものだった。

 古代より、白蓮国の王族の血を引く者は元服が近付くと精霊の祝福を受けるのだ。精神が成熟した頃、精霊が目の前に現れて契約を交わし、以後その者の一生を見届け必要とあらば力を貸す──王族で無い者でもよく知る、白蓮国の習わしである。

 反対にいつまでも精霊がつかない王族は、いくら表面上立派な人間に見えたとしても「祝福の価値なし」と判断され、王にはなれない。それどころか、最悪の場合心に穢れがあるとされ王宮から追放されることも少なくない。

それゆえ、王は自分の息子が精霊に認められたと聞き、安堵せずにはいられなかった。


「お前なら認められると信じていたとも、久時ひさとき。お前は私より、ずっと賢く強い男になるであろう」

「そうであれば嬉しいです。いつか、父上のように立派な──」


 と、彼──久時がそう言いかけた時におもむろに部屋の戸が開かれ、親子が振り返ると同時に頭上から金切り声がふってきた。


「久時、お前の可愛い妹がわたくしの鳥を逃がして意地悪するのをなんとかして頂戴!十三にもなってなんです、あれでは精霊からも呪われてしまうのではなくて?」


 少しやつれたように見えるが意志の強さだけは失わない瞳を持つ彼女は、白蓮国王の正室である。

かつて美しかった面影はあるが、子を失い地位すら危ぶまれる彼女は今やすっかり老け込み、鮮やかな衣装に埋もれるようにぼおっと浮かんで見える蒼白の頬が、その悲壮感をいっそう際立てていた。


「まあ、子供のした事だ。しっかり叱ってやればよい」

「あれはわたくしの子ではありません、主上。あなたの子であるというだけで情をかけたのであって、召使の子なら追放しているところです」


 有無を言わさずそうとだけ言うと、彼女は久時を鬼のような目で睨み、そうして足早に部屋を後にした。取り残された父と子は何も言えずに、ただどちらからと無く部屋を出て正室の部屋へと急ぐのだった。


 正室の部屋へ一歩入ると、そこには部屋の主のものと思しき衣服が無造作に散乱しており、その中心に空の鳥かご、そして部屋の隅でうずくまって久時の妹がすすり泣いていた。


「おい静音しずね、いったい何があったのだ」


 急いで駆け寄ってくる声が兄のものとわかると、静音はゆっくりと顔を上げ、泣き顔のまま体制を正座へと正す。そうして兄の背後の父に気が付くと、はっと息をのみ慌てて床に両手をついた。


「申し訳ございません、お妃様のお部屋に猫が忍び込むのを見て、思わずかごの鳥を空いた衣装かごへ移したのです!それがお妃様の目に入り、私が猫をけしかけ鳥を逃がしたのだろうと……」


 そうして彼女が頭を下げると、ぽろぽろと涙が床にこぼれ落ちる。その姿に、王は静かに目を伏せ、一言「すまない」と言った。

 正室が静音につらくあたるのは、何もこれが初めてではなかった。

久時に比べ王位継承権もない「側室の娘」は、彼女にとっては目障りな久時の腰巾着でしかない。それが自分の周りをうろうろと歩き問題を起こしたとなると、それは腹が立ってしかたないのだ。

 静音の方はというと、温厚な兄に輪をかけたように穏やかな性格で、少し気弱すぎるところが何より難点である。兄と同じく精霊にはなかなか認められず、あと一年で迎える元服までにどうにかなるものなのかと近頃は不安な日々を過ごしていた。

 気立てもよく宮中の者からの人気もあるのだが、それがかえって正室の癇に障るらしく、彼女は事あるごとに静音を執拗に責め立てては、お前が王の娘でなければ、となじるのである。

 久時は、あまり年頃も変わらない妹とは仲が良く、そんな継母の態度には憤りを覚えていた。自分の娘ではないとはいえ、この仕打ちはあんまりではないか──そう何度も父王に怒りをぶつけたものの、返ってくる答えはいつも決まって「すまない」の一言だけであった。


「静音、怪我はしていないか、こっちへおいで」


兄の呼びかけにようやく静音は顔を上げ、小さく「はい」と返事をすると部屋の奥から恐る恐る部屋の中心へとやってきた。

 彼女の手には衣装かごがあり、その中からは怯えたような小鳥の泣き声が聞こえていた。


「この鳥を守ろうとしたのだね。きっとこの鳥は恩義を忘れないだろう。静音のおかげで命を長らえたのだから」

「そうでしょうか。何も考えず行動していたから……」


 静音は小鳥を優しく掴むと手早く鳥かごに戻し、明るい泣き声を確認するとようやく笑みを見せた。その様子に父も兄も安心し、そろって安堵のため息をついている。

 すると、兄は何かを思いついたように声をこぼし、すぐさま妹の方へと向き直って言った。


「そうだ、せっかくだからこのまま私と散歩でもしないか?お前に話があるのだ」

「話?私に、ですか」


 すっかり呆気にとられたような顔の静音に、久時はにっこりと笑って頷いた。


「久しぶりに裏山の滝へ行こう。この時期なら、きっと桜も綺麗だろう」


 その言葉に、静音は一様に目を輝かせて父の方をちらりと見る。

父王はその意味をすぐに理解し、快く頷いた。


「行ってきなさい。妃には私から事情を説明するから心配はいらぬ」

「ありがとうございます父上、行ってまいります」


 まだ多少の不安は拭いきれないながらも、父の言葉に大分静音の気持ちは軽くなり、笑顔で一礼すると彼女はすぐさま兄とともに王宮の裏山へと向かっていった。

 この先、もし久時が王となり、静音がその補佐となるような事があれば、一体二人にはどれほど多くの敵ができるのだろうか──王は乱雑な妃の部屋をぼんやりと眺めつつ、深くため息をつくのだった。


 白蓮宮の北門から抜けてすぐの場所にある、小さな山にやってきた兄妹は、やや歩いた先にある滝の前で立ち止まった。滝の周辺には滝を飾りたてるように桜の木が並び、その一つ一つが今日を最後に、とでも言わんばかりに見事に咲き誇っていた。


「この滝に来るのは何年振りか。静音がまだ十にもなる前だったかな」


 兄の言葉に、静音は眉尻を下げて笑う。


「兄様が夕涼みにと滝つぼに入った年から、しばらく立ち入り禁止とされましたね。もう時効になったのですか」


 静音が言うと、久時は照れくさそうに口を尖らせた。


「あれはまだ、私が幼かった頃の話だ」


 そうして、彼はその言葉に続けて襟を正して言った。


「静音、私もようやく精霊の祝福を受けたのだ」


 そう誇らしげに宣言した兄とは対照的に、静音はしばし硬直したのち、徐々に意味を理解したようで次第に頬を紅潮させる。そして、ようやく意識が追いついたのか、口元いっぱいに笑みを浮かべて力強く兄の手を握っていた。

「とうとうこの日が来たのですね!兄様もこれで晴れて元服を迎えられますね」

 白蓮の王族にとって精霊との契約が何を示すのか、それは乳母や教育係から重々聞かされていたため、喜びもひとしおである。

 精霊が、王族として生きられるのかを見定め、認めた証──それは王族の人間が元服式をするための第一条件でもある。精霊の祝福を受けてない者は、何歳であろうと正式な成人王族とは認められず、元服を行えないのだ。

 満面の笑みの静音に笑顔を返し、久時は懐から菱形の石の付いた首飾りを取り出す。静音はその神秘的な白い輝きから、それが精霊との契約の証であると直感的に理解した。

「それが、精霊の祝福なのですね」

「そうだ。この石には、私と契約した精霊の力が込められている。何か危機があれば、この石を通じて私や家族を守るそうだ」

 菱形の石は通常の宝石とは違い、呼吸するようにゆっくりと、そして柔らかく灯火のような光を放っていた。静音はその光に見とれつつ、興味津々に兄に話をせがむ。

「兄様、精霊はどのようなお姿をされているのですか?伝記には雄々しい獅子の姿とも、美しい女性の姿ともありますが、父上は龍の姿とおっしゃっていました」

「私が見たのは、大きな狼の姿をしていたよ。銀の美しい毛をもつ、美しい狼であった」

 そう久時が答えると、静音は夢見るような表情を浮かべ天を仰いだ。

「いいなあ、私の元へも精霊は来てくれるでしょうか?そうすれば、今度は私たち二人と、その精霊二人の四人でお花見がしたいです」

 きっと綺麗なんだろうな。そうぽつりと呟く声は、どことなく寂しそうであった。

 精霊と契約し、元服を迎えた王族がそう気軽に花見などできないことも、精霊が人前にほとんど姿を見せないということも、静音はよく知っていた。

 その夢が叶うことはきっとないという事を二人ともが理解していたし、精霊が自分の元に来るかどうかさえ不安に思う妹の心情を知っていた久時は、あえて明るい声で答えた。

「そうなれば、いっそ母上にも来ていただこう。そして、久々に私もこの滝で夕涼みとしよう」

「元服後にそのような事をされては、狂人として牢へ繋がれますよ」

 静音はそう苦笑いしつつ、兄の気遣いに感謝していた。

兄はいつもそうだ。気の弱い自分を励まし、継母につらくあたられた時も、いつだって味方でいてくれる。

あまりにつらく部屋を抜け出し、食糧庫に隠れて泣いた夜も、真っ先に自分を見つけて抱きしめてくれた。

 静音にとって、兄は父や母以上に家族である。 てんで病弱で、王宮の離れに隔離されるようにして暮らす母親とは、ほとんど直接顔を合わせるこもない。そんな母親と手紙のやり取りで交流してはどうかといったことも、兄が最初に提案したものであった。

 だからこそ、兄には父の後を継いで、白蓮国の王になって欲しかった。

側室の子だろうと、紛れもない王の子なのだ。静音は久時の手を強く握り、その眼をまっすぐに見つめて言った。

「兄様、必ずや父上の後を継いでください。私はいつでも、兄様のため祈っております」

 久時も、一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに力強く頷いて答えた。

「ああ。そのためには、しっかりとした大人になり、宮中の者を納得させねばならぬな」

 そう言った兄の顔は、今まで見たどの顔より精悍なものであった。

       *   *   *   *

 久時の元服式は、それより半年が過ぎたころにようやく行われる事となった。

精霊の祝福を受けた、という事実が認められるまでにはやや時間がかかり、王が式の日程を決めたとしても、正室の側につく占師が「その日は星の並びが良くない」、「久時様は妖に憑りつかれているのでまずは清めを」、などと適当な理由をつけて式をなんとか取りやめにしようと案を通さなかったのだ。

 だが、これではいかんと王は隣国から新たな占師を王宮に招き入れ、その者が決めた日程に乗っ取って式を行うと決断した。正室やその一派は

面白くなさそうな顔をしていたが、その式の数日前になり正室に懐妊の兆候が見えたところで、なんとか彼女も少しは気持ちの平安を取り戻していた。

 式の当日、宮中の正門から王の執務を執り行う中央殿までの道のりには、国を護る兵たち、多くの楽団員、そして踊り子たちが並び、さながら祭りのようなにぎやかさであった。

 中央殿には王が玉座にて待機し、成人の衣装を身にまとった久時が、精霊の祝福の首飾りを掛けて正門より練り歩く。静音は兄の姿を中央殿の手前の階段前で眺めつつ、兄の履物を預かるという役割を受けた事を誇りに思っていた。

 兄は普段王宮で見るよりずっと凛々しく、少し大きいが正装の衣も様になっていた。こうして見ると、兄がいつの間にか自分よりずっと大人になっていたのだと自覚し、静音は少し恥ずかしくさえあった。

 楽団員の演奏は、兄が王に近づくほど厳かなものとなり、宮中全体が緊張感に包まれる。その中で、王は息子に授ける破邪の剣を膝の上で感慨深く撫で、その大分後方で、側室である久時の母は温かい目で息子の晴れ姿を見守っていた。 

 その場に、正室の姿は無かった。身重であること、また息子を一度失った悲しみからまだ立ち直っていない彼女の精神状態を考慮して、王が特に出席を強制しなかったらしい。静音はそのことに多少安心しつつ、近くまでやってきた兄に微笑みを向けた。

 兄妹は言葉こそ交わさなかったが、兄は静かに目を伏せ、妹の笑みに応えるように膝をつく。そうしてゆっくりと履物を脱ぐと、彼女に手渡して中央殿へと足を踏み入れた。

 このまま王の元へ進み、元服の証たる破邪の剣を授かり、それを掲げたところで久時はようやく成人となる。誰もがその瞬間を見逃すまいと息を飲んだ、その時であった。

正門から急ぎ駆けてきた騎馬兵によって、その緊張感は一瞬にして緊迫感へと変わった。

「敵襲!敵襲!おびただしい数の妖が、王宮へ向けて進行中!非戦闘員は退避、王宮兵は主上並び王族を御守せよ!」

 そう叫ぶ兵士の声が響き渡ると、宮中はたちまち混乱に包まれた。

楽団員や踊り子は楽器や装飾品を置いて真っ先に正門から飛び出し、兵もどうしたら良いかわからずしばらく右往左往していた。

 静音も突然の事にしばしその場に立ち尽くしていたが、背後からの兄の呼びかけにようやく意識を戻した。

「静音、履物を」

「は、はい兄様……」

 今まで戦も無く、平穏な日々を過ごしてきた彼女にとって、突然起きた混乱さえもまるで元服式の一環のように感じられた。だが、兵士たちの怒号が響くにつれ、これが現実なのだと理解し、静音は恐怖に身体を震わせていた。

 そんな静音を叱咤するように、久時は静音の手を強く引いて北門の方を指差す。

「何をぼうっとしている、父上ももうここを離れた。私たちも逃げるんだ」

 言われて中央殿の方を見ると、王はすでに王宮の奥へ退避したらしくがらんとした空間だけがそこにあった。

「裏の山へ入れば、身を隠せる洞窟もある。急ぐぞ、静音」

 そう言って駆け出した兄に手を引かれたまま、静音も北門へ向けて走りだす。その途中に兵士が刀を構え彼女らの道を確保してくれていたが、彼らもまた恐怖に唇を噛みしめていたのを、静音は見逃さなかった。

 兄妹が裏山へたどり着く頃には、白蓮宮の方からおぞましい多数の呻き声、そして多くの兵士の悲鳴が響いていた。二人を護るために数人の兵士が北門から彼らの前後に就いていたが、道中その兵たちも訳がわからないといった風に拳を震わせていた。

 今まで、白蓮国には妖は確かに存在していたが、山道で女に化けて人間を連れ去った、だとか川に溺れた子供を食う、といった小さな事件を起こすくらいで、こんな風に集団で国を脅かすのは初めてのことである。

 それゆえ、誰もが妖に対する戦い方など心得ているはずもなく、白蓮宮から響く兵士の声は次第に聞こえなくなっていた。

 久時は、こんな時の為の精霊ではないのかと、首飾りを強く握りしめつつ、必死に精霊に助けを乞うた。しかし、その思いもむなしく、突然目の前を進んでいた兵士の一人が何かに引っ張られるように空中へと跳ね上がった。

「ああああ!足が、足が!」

 叫ぶ兵士の足には太い蛇の尾が巻きつき、その先へと視線を動かすと並ぶ木々に絡みつくようにして巨大な蛇が待ち構えていた。

 蛇は木の枝に尾を乗せ兵士をさかさまにぶら下げると、しばしその姿を眺めたのちに兵士を一飲みに食らってしまった。

 その姿に恐れおののき、他の兵士が腰を抜かしていると、蛇はずるりとその巨体をくねらせ地へと降りる。その中で一人の兵士が意を決して刀を振り上げ突撃するも、大口を開いた蛇にすぐさま丸のみされてしまっていた。

 久時は、このままではみなこの大蛇の妖に食われてしまうと、歯を食いしばりありったけの声で叫んだ。

「みな、もうよい、逃げよ!人にはこの妖の相手は務まらぬ、走れ、走るのだ!」

 そしてその声を号令として、残ったわずかな兵、久時、静音は全速力で山奥へと走った。

 このまま走れば、もうすぐ道の細い洞窟へとたどり着くはず。その場所を目指してひたすら走るも、地を這い追いかけてくる大蛇の速さは人の足とは比べ物にならず、気付けば残されたのは久時と静音のみとなっていた。

 そして、今にも崩れそうな脚を引きずって静音は必死に走るが、元より体力の無い彼女は、とうとう力尽きその場に倒れこんでしまった。

「静音!」

 久時は必死に妹を引き起こすが、大蛇はもう目前へと迫り来ている。

もはや、これまでか──久時が目をつぶったその時、彼の首から下がる菱形の石が、白くまばゆい光を放った。

「精霊よ!私に力を貸してくれるのか」

 そうして、その光に大蛇が一瞬たじろいだ隙に、久時は今が好機と懐の小刀を取出し大蛇の右目に突き刺した。その攻撃に、大蛇は大きく身をくねらせ、血の滴る頭を振り乱して苦しんでいた。久時は血の付いた小刀を衣で拭うと、間髪入れずに蛇の喉元にその切っ先を突き立てる。が、小刀はその表皮を軽く切りつけたのみで、蛇は先ほどの仕返しと言わんばかりにその長い尾で久時の体を締め付けていた。

「兄様!」

 静音はふらふらと立ち上がり青ざめた顔で大蛇へ一歩近づく。が、久時は妖に捕えられながらもなお力強い眼差しで静音に言い放った。

「何をしているか、早く今のうちに洞窟へ!私には精霊が付いていると忘れたか、必ずや後を追うからお前は先に行け!」

 殺気すら感じる兄の鬼気迫る表情に、静音は重い足で何とか直立しつつ、大声で答えた。

「はい、静音、この御恩生涯忘れませぬ!兄様も、必ず、必ず生きて下さい!」

 そう言って、彼女はありったけの力を振り絞り、ひたすらに洞窟へ向け走っていった。その背後からは兄の雄叫び、そして狼にも似た獣の咆哮が響いていたが、静音の耳にはほとんど聞こえていなかった。


 洞窟へ入ると、しばし細い道が続き、そうしてやがてようやく人が三人は入れる程の空間へ出た。明かりも無く冷えた岩壁の洞窟の中、静音は兄を待つべく壁際にうずくまっていた。

 湿った岩肌は体を冷やし、徐々に体力を奪っていく。静音はその中でしばらく身を震わせていたが、そのうちに疲れ果てていつしか眠ってしまっていた。

 それから、どのくらいの時間がたったのだろうか。数日待ったような気もするし、まだ半日ほどしか経っていない気もするが、いずれにしても兄はやってこなかった。

 諦めと絶望の淵にいた静音ももう体力の限界を感じ、ついにはその場にどさりと倒れこんでしまう。

 もう、全てがどうでもよかった。最愛の家族を失い、王宮を失い、こんな惨めな最期を迎えるなんて。父や母は無事だろうか。自分を苛めた正室はやはり王に守られ生きながらえたのだろうか。白蓮宮が再建され、再び国の中心となるその時に、自分と兄の事など気にせずに時間が流れるとしたら、それはどんなに悲しい事なのだろう。静音は、寒い洞窟の中で声を上げてむせび泣いた。


──いっそ、このままこの国が滅んでも構わない。全く新しい王が誕生するのなら、それもいい。ただ、自分を逃がすためとはいえ兄を目の前で見殺しにしてしまった気がして、悔しくて仕方がなかった。

 いままで感じたことのない程の怒りと憎悪に、静音は強く握った拳を岩の床に叩きつけた。一体、誰が、何の為に妖をけしかけたのか。考えるうち、静音はふと、あの場所にいなかった一人の人物を思い出していた。

「……お妃さま」

 そういえば、あの時、元服式の場に正室の姿は無かった。

 兄と自分が消えることで、都合のいい人間は誰だ?正室には懐妊の兆しがあると聞いている。

王の子が、その子一人になったとしたら?あの惨劇が起こる事を知っていた人物ならば、理由をつけて式に参加しないことすら造作もないだろう。

 しかし、今さらそんなことを思ったところで、仕方がないことだった。静音には王宮に戻り正室にそれを問いただす体力など残されていなかったし、犯人が誰であれ、済んだことは元には戻らない。視界の霞む中、彼女はぽつりと呟く。

「──死にたく、ない」

 ぼろぼろと溢れ出る涙は、枯れる事無く彼女の頬を濡らす。そうして、もう一度同じ言葉を呟いたところで、いつに間にか彼女は眠りについていた。

      *   *   *   *

 夢かうつつかもわからぬ暗闇の中、静音の耳にひたひたと湿った岩を歩く足音が響いてきた。

いよいよ追手が来たのか、それとも兄がようやく追いついたのか。ぼんやりとした意識の中うっすらと目を開けると、目の前には裸足の足があった。

「生きたいか」

 そして、頭上からそう低い声が響く。声は男のもので、今までに聞いたことのないものである。一体誰かと確かめるべく視線だけを上へ向けると、静音の前には背が高くうねりのある長髪の男が立ちはだかっていた。

 暗がりの為、男がどのような顔をしているかはわからない。だが、鋭く輝く瞳がまっすぐに静音を見つめている事だけは感じ取れた。

「お前の望みは、生きる事か」

 男がそう問うと、静音は弱弱しく頭を起こして改めて彼を見据えた。

「あなたは、もしかして……精、霊」

 かすかな希望を見出した彼女に、男は鼻で笑って答える。

「さあ、どうだろうな。お前の望むような精霊ではないかもしれんが」

 どうも要領を得ない言葉ではあったが、この状況下では静音も細かいことは気にしていられなかった。

「生きたいか、と聞かれ、ましたね。……私、生き、たいです。そして、王宮を、家族を襲わせた者の正体が──」

 そこまで言ったところで、おもむろに男の手が髪を掴み、静音の顔がぐいと引き上げられる。そうして、目の前に迫った鋭い眼光が、彼女の顔を見定めるように細められた。

「お前の望みは聞き受けた。これより、俺はお前の精霊として望みを叶える。強く願え、“生きたい”と」

 王家の精霊は生涯一人の人間につき、王家の人間はその精霊とのみ契るとされるが、この精霊が本当にそういった類の存在なのかは静音には分からない。

しかし、ここから生きて出られるならなんだって良かった。静音は藁にもすがる思いで、男の要求を飲んだ。

 ここで死ぬくらいなら、自分を助けようと言うこの男が精霊だろうが妖だろうが、どちらでもいい。ただ兄から貰った命を繋ぐことができれば、それで良かった。

「生き、たい……!」

 声を振り絞って力強く答えると、男は満足げににやりと笑い、そうして静音の髪を掴んでいない方の手を彼女の体にかざして言った。

「では、契約成立だ。俺は‪狗々裡‬くぐり。よく覚えておけ、それが、お前の精霊の名だ」

 そうして、男の手からは青い光が放たれ、そのまばゆさの中でいつしか静音は目を閉じる。

 この契約が、はたして本当に自分が望んでいた精霊との契約というものなのか。この光が、“精霊の祝福”なのか──今の彼女にはそんな事を考えるゆとりもなく、ただ意識を深い闇の中へと沈めていくだけであった。


(2023/02/14:一部加筆訂正しました)

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