第9話 はーと

 最近小手指の機嫌がいい。

 四月が終わり、五月初週に入っても、彼女はむずむずと嬉し気に指を走らせる。


『お』

「だから駄目だって。あれは一種の事故みたいなもんだから、毎日要求するのは勘弁してくれよ……」


『ひ』


 小手指についていた、変なスイッチを押してしまったらしい。

 学校の内外問わず、例のアレをねだるのはいかがなものか。

 俺は小手指のおねだりを突っぱね、日々、微妙に真面目な学校生活を送り続けている。


 ゴールデンウィークも間近に迫り、気もそぞろになるクラスメイトも多い。

 どこそこに行く。誰と遊ぶ。新しいものが欲しい。

 各自予定を組み立て、高校という短いながらも貴重な時間を、有意義にすることに一生懸命だ。


 俺はと言えば、近所の学童保育の手伝いに行き、こいのぼりを掲げるくらいしかやることがない。

 リッキーは耐久カラオケだとか、ゲーセン無双だのと、とことんまで遊びつくす画策をしているようだった。

 手持ちの金がなくなるまで、徹底的にやるぜ! と他の男子を鼓舞し、けしかけている。


 一方、中城は大切な用事があるとかで、何処かへ出かけるようだ。

 聖地がどうのとか、推しがなんだとか。

 ああ見えて敬虔な仏教徒なのかもしれない。人は見た目で判断してはいけないということだろう。


 春と呼ぶには既に遅く、どちらかというと夏の香りがする放課後。

 俺はこいのぼりの材料でも買いに行くかと思い、早めに学校をあとにした。


 後で経費とお礼がもらえるとはいえ、いったんは自腹を切らないといけない。

 皆のためになるので、なるべく安く抑えたいところだが、安っぽすぎても子供にガッカリ感を与えてしまうだろう。


 で、だ。

「小手指さん、なんで君までくるのかな」

「…………」

 そうなんです。最近この娘、登下校は裾を掴んで離れないんですよ。

 一体何がそこまで小手指を駆り立てているのかは不明だが、流石に用事のある日はお断りしたい。


「今日俺買い物があってさ。結構遅くなると思うから、この辺で……」

『や』


 ですよね。

 俺の脳内にある小手指フォルダを調べると、否定の言葉は短めに行うのが彼女の流儀になっている。

 しかも『や』は割と強めのワードだ。


 ドカ盛りチャーハンを再び見たときは『だ』『め』と書いてきた。

 背中で縮こまって、がくぶるしている小手指が可哀そうになったので、なんとか放送できる量の昼食を選ぶ習慣が出来た。

 おかげで少しやせたかもしれない。


「ん、何々……なんだ、この文字は。しかも長文……」

 小手指が異常な反応を見せた。

 周囲には何もないし、誰もいない。

 こんな道半ばで、一体何を伝えようとしているのか。


『お』

「いや、だから……」

 うーむ、妙なクセがついてしまったのか。小手指はお姫様抱っこがバチクソお気に入りになったのだろう。

 しかし常に要求されるのもよろしくない。ここは一つ、バシっと言い聞かせておいたほうがいいかもしれない。


「あのな小手指さん――」

『と』

 すいすい、ぐにゃぐにゃ、ねじねじ。

 文字を異常な速度で書き、それでいて字数が多い。

 流石にこれは解読に時間を要するだろう。


「困ったな。とりあえず材料を買ってくるから、そのあとでお話しよう」

『り』『ょ』


 地味に口語調だった。

 俺は小手指と一緒に、近くの雑貨屋で大きめの布を買う。後マジックペンも。

 絵心は乏しいが、手作りするからには鱗の一枚までこだわって描きたい。

 

 お会計を済ませ、レシートを受け取る。

 一緒に買ったミルクティーを小手指に渡すと、彼女はその場でくるくると回って、喜びの表現をし始めた。

 両手で持ったミルクティーを頭上に掲げ、目をきらきらさせている。


「オーケー。それじゃあ帰ろうか」

『や』

 うーん、この我がままっ子。

 今日の小手指は押しが強い強い。並々ならぬ情熱を抱いているのだろうか。

 そうだった。それを判別するには、小手指に背中を貸さないといけないのだった。


「それじゃあさっき言いかけてたこと、もう一度書いてもらっていいかな」

『まる』

 近場の公園に移動した俺たちは、ベンチに座って横向きになる。

 人が見たら、彼らは何の儀式をしているのだろうかと、不審がられるかもしれない。

 俺は端っこに座り、小手指は靴を脱いでぺたんとベンチに正座している。


『お』

『と』

 おと……音? 何か聞こえるんだろうか。

 実は小手指に霊感があって、俺に何かが囁いてきていたり……。

 嫌な考えを否定するかのように、小手指は高速で指を動かす。


 しゅー--っ、しゅしゅしゅっ。

「早い早い。『お』と『と』までは分かるけど、それ以上は解読できないよ。もうちょっとゆっくり書いてくれると助かる」

『まる』


 小手指の指が、心なしか震えているようだ。

 後ろですーはーと大きな深呼吸が聞こえる。

 マジで悪霊でもいるのか? だったらグス子と一緒に寺にでも……。


『ま』

『り』


 まり……毬? 音の出る毬……キッズ用品ぐらいしか思いつかないが、なんだろうか、この謎かけは。

 小手指は何か球体的なものを欲しがっているのかな。

 先ほどの雑貨屋で見繕ってくることもできるが……さて。


『お』『と』『ま』『り』


 気持ち早めで連続して文字が書かれる。

 おとまり。

 ボフっと顔から湯気が出そうになる。


「お、おとまりって、お泊り? え、え?」

 真意を問いただそうと、俺は後ろを振り返ろうとするが、小手指のか弱い抵抗にあって阻止されてしまった。

 両手で背中を押し、だめーっとばかりにくりくりと動いている。


『だ』『め』『?』

 ちょっと反応に困る。

 お泊りしてもいい? という問いに、俺はなにがしかのアンサーを返さなくてはいけない。しかし安易にイエスと答えると、割と取り返しのつかないことになりそうだが。


「こ、小手指さん。それはその、俺が小手指さんのお家にお泊りするってことかな」

『まるまるまる』

 何その荒行。

 え、ご両親は? 流石に、なぁ……。

 いくら同級生とはいえ異性だし、線引きは厳しいものがあるだろう。


「お父さんお母さん、怒らないかな。ちょっと男子が泊まりにくるのは、許されないと思うんだけど」

『ち』『ち』

 

 一瞬下品な想像をしたが、順当に考えればこれはお父さんのことだろう。

『る』『す』


 留守……と。

「うん、でもお母さんが心配するかもしれないよ。大丈夫なのかな」

『は』『は』


 うん、と俺が頷いたのを確認し、小手指は文字を綴る。

『い』『る』

 ちょっとガッカリしてしまったのは、俺のスケベ心ではないと信じたい。

 いるよね、そりゃ。いきなりペアキャンプは難易度が高すぎるし。


「小手指さん、お母さんはこのこと知ってるのかな。多分無理なんじゃないかなって思うんだけど、どうかな」

『まるまる』


 そして、続く。


『し』『ょ』『う』『か』『い』


 俺はガサっと手荷物を落としてしまった。

 しょ、紹介……ということは……。


『い』『い』『?』


 重要な決断を突きつけられている。

 これはいわゆる既成事実の構築であり、いわば男女間におけるコペルニクス的転回の幕あけではないだろうか。一説によるとキリスト教では天動説が採用されており、それ以外を異端とする傾向があった。かのガリレオも審問に耐えきれず、自らの仮設を投げ捨て、私邸に籠ったとか籠らなかったとか。一般的に新しい関係性が発見される場合、何らかの障害ないしはハードルに近いものが用意されるという。これは演劇における三幕構成でも採用され――


 ベチン。

 背中にチョップが入った。


「はっ、俺は今何を……ごめん、小手指さん。ええと、それはゴールデンウィークの話だよね?」

『まる』

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……その、顔見せということで……」


 そう答えたとたん、背中にお日様の絵が描かれた。

 今日の快晴のように、小手指の中では陽の光がさんさんと降り注いでいるのかもしれない。


 小手指が最後にちょこっと、何かを書いたのだが、俺には判別できなかった。

 丸ではない。バツでもない。お日様や花丸でもない。

 それはよく見る記号だと思うのだが、今の俺は集中して読み解くことが出来ないだろう。

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