第6話 麻痺した世界
躊躇なんてしない
修学旅行が終わり、あれから僕は、この世界に対して抱く感情について一つの結論を出した。僕はあの時、ベッドの上で、希望も絶望もすべてが重たくて壊れてしまった。亜黒に慰められるほど、僕は自分が嫌になった。もっと亜黒の声や体温を感じたくて、自分を傷つける運命に追われ、鬱々とした気持ちになった。僕はその感情の波に耐えられなかった。希望がある分、そこには絶望があった。
だから僕は思った。
ならば僕は、亜黒のこと以外、何も感じられなくなればいいのだ。
すべての感覚を麻痺させて、憎しみも悲しみも、何も感じられないようにすればいいのだ。後はただ、告白できるタイミングを待つだけだ。僕のこの恋心を、必死に守ればいいだけだ。
いつものように僕は、放課後に亜黒と過ごし、亮二も加わって一緒に帰宅した。自室に入り、僕はベッドに体を投げ出した。
しばらくすると、ラインで亮二から着信が来た。
僕はベッドから体を起こし、机にあるスマホを持つ。ロックを解除してラインを開く。僕は亮二の明るいアイコンからの白い吹き出しの中を読む。
『速報‼ まーくんの告白プラン考えてきたぞー‼』
その文が見えて、僕は素直に喜ぶ。もうすぐ、亜黒に気持ちを伝えられる。すべてを、終わらせることができる。
『どんなの?』
僕はそう送ると、亮二は返信するのに長い時間をかけた。そして、返信が来た瞬間、長い吹き出しが現れ急速に画面がスクロールされた。
「うおっ⁉」
そこに書かれていたのは、とても細かい内容のスケジュールだった。
電車で都心に行き、バスに乗ってカラオケに行き、ショッピングセンターでマック、それに映画館。電車やバス、上映開開始の時間がきちんと考えられていて、僕はここまでしてくれる亮二に驚いた。
そして、最後にこんな文が添えられている。
『そして近くの観覧車で告っちゃえ‼ 明日、決行な‼』
「えっ⁉ 明日⁉」
と僕は声を上げる。心の準備がまだできない。それに、観覧車で告白……、凄いベタじゃない?
亮二は送信を続ける。
『俺達三人で遊びに行くって口実で、俺は亜黒に伝えてる! 大丈夫! 俺、途中で抜けるから!』
『えっと、どういうこと?』
と、僕は送る。
多分、亮二は熱が入って文を書き込んでいる。テンションが上がって書いた文章ほど内容が伝わりづらいものはない。
そしてまた時間が経って、長い文章が送られてくる。
『まずだな? とにかく最初はカラオケ行って、その時に俺が抜けて……』
僕は亮二の書いた、内容はよくできてるけれど伝わりづらい文を、質問しながら理解していった。
確かに、この計画なら告白できるかもしれないと、僕は思った。
亜黒に、もうすぐで気持ちを伝えられる。感情的になってしまった、あんな醜い自分を、僕は殺すことができる。
その日の夜。パジャマ姿のまま僕はベッドから抜け出し、部屋から出る。暗い廊下を歩きながら、僕は何回、自分を傷つけてきたのだろうと考える。
僕はリビングに出て、電気を付ける。そのまま、僕はキッチンの食器入れの前に立つ。僕は食器入れの中から、包丁を取り出す。包丁の刃と、大皿と、食器棚のプラスチックが擦れる音を、僕は何回も聞いてきた。
僕は包丁を、左腕に当てる。修学旅行の後、僕は何回も包丁で腕を傷つけ続けてきた。その痛みに、僕は完全に慣れてしまっていた。
包丁を使って腕を切った場合、得られる制限時間は七日間。包丁で自分の腕を切るのに慣れてきた頃、僕はハイイロさんに制限時間を聞くことがなくなった。包丁で自分を傷つける痛みはいつも同じなのだから、制限時間の長さだって変わらない。もう、ハイイロさんに魔法のことを聞かなくても、僕はこの罰欲センサーという魔法を理解していった。
要するに僕は、この痛みに慣れてしまえばいいんだ。
ほら、だって、こんなに血が出ても、僕の心は何も苦しくないんだもん。
僕はキッチンの棚に背中を預けて足を伸ばして座り、罰欲センサーが発動するのを待っていた。
僕の左腕からは、だらだらと馬鹿みたいに血が溢れ、平和なはずのリビングが、だんだん痛々しい色に浸食されていく。シンクの縁に置かれた真っ赤な包丁は、刃を外側にむき出しにして、ぽたぽたとキッチンマットに赤い液体を垂らしている。
なんだ、僕の思っていたより、簡単じゃないか。と、僕はおかしな気持ちになる。痛いだけで、僕の心は絶望には落ちていかない。痛みに慣れた僕は、もう怖いとも何も思わない。腕を切るのに躊躇なんてしない。
僕はなんだかおかしくなって、狂ったように笑い始める。
「あははっ‼ アハハハハハハハハハハハ‼ アハハハハハハハハハハ‼」
その笑い声を聞きつけたのか、すりガラスのリビングのドアが開き、お母さんが血まみれの僕を見つける。
「ましろっ⁉」
お母さんは怒るでも、ヒステリックになるでもなく、膝から崩れ落ちて、まるで生命を維持する体の活動を止めてしまったみたいな、血の気の引いた顔で僕を見ていた。お母さんは何かを言う前に、時間を止められてしまう。
「フハハハハハハハハハ‼ ねえ、おかあさん……!」
反応しないお母さんに、僕は興奮からなのか痛みからなのか分からない震えた声を上げる。
にやけた声で、僕は言う。
「ぼく、こうやって傷ついて、みんなからゆるされてるんだ……。だって、当然でしょ? こんなに痛いんだもん……。これで七日間、みんなからゆるされるんだよ? 悪いことをしたひとは、ちゃんとした痛みがひつようになるんでしょ? 僕はそれをじぶんでうけてるんだよ? もう少し、もうすこしで亜黒に告白ができる。それまで、僕はこのいたみでゆるされてもいいでしょ?」
赤い糸が、僕の体に絡みつく。机や椅子、カレンダー、観葉植物、テレビ、壁にかかった時計に巻き付く。真っ赤な部屋に、リビングが変貌していく。
僕はその勢いに飲まれながら声に出す。
「アハハハハハハ‼ もう苦しくも悲しくも、なんともないよ? そうすれば、僕は幸せだけ感じることができるでしょ?」
もう僕は、苦しみや悲しみなんて感じない。こうやって許されている自分を憐れんだりしない。これは、正当な罰だ。だって、この罰欲センサーは、世界を変えてまで、痛みを味わった僕を許してくれるんだから。ちゃんとした痛みを味わって、僕を普通の日常へ戻してくれるんだから。
僕は明日の午前五時半に、ベッドの上で目を覚ましていた。
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