宥めるような声

 ジャージに着替えて、僕はトイレの前でハイイロさんを呼んだ。僕が得た制限時間は今日を含めて五日間なのだそうだ。

「まあ、その場しのぎって感じだね。じゃあ、またね」

 そう言ってバスタブの縁に座っていたハイイロさんは消えていった。

 僕は鍵を開けて部屋に出る。二日目のホテルの部屋は、昨日と違って洋風だった。暖色の明かりが部屋の中を包んでいた。二つ隣に並べられたベッドと、少し離れた場所にベッドがもう一つある。離れている方が、僕の使うベッドだ。

 がちゃ、と部屋のドアが開けられる。

 僕はその音に一瞬びくっと驚く。部屋に入って来たのは、亜黒だった。目が合い、僕は気まずくなって目を逸らす。

「あ、あっくん……」

 僕は、なんて謝ればいいのか迷ってしまう。

 ただ、亜黒の感情の分からない閉じた口や、体が僕の目に映りこむ。

 すると、亜黒は口を緩め、ふふっと笑って言った。

「まーくん、風呂上り?」

 え、と思って僕は顔を上げる。

「うん……」

「じゃあさ、トランプやらない? 持ってきてるから」

 亜黒は慰めるような優しい微笑みを浮かべ、そう言った。


「まーくんが風呂入ってる間、男子で別の部屋に集まってたんだけどさ、亮二が百物語もどきでもやらない? とか言ってきて、俺ホラー苦手だからさ、こっちに逃げて来たんだよね」

 亜黒のベッドの上でババ抜きをしながら、亜黒は僕を和ませるように言った。

 亜黒は胡坐をかき、僕は正座で座っている。

 ベッドの隣のランプが、布団の上に捨てられたトランプを照らす。

 遠くの部屋から壁を通り越して、男子たちの騒ぎ声がぼやけて聞こえてくる。それに比べてこの部屋はとても静かだ。廊下の一番奥にある、この温かい明かりに包まれた部屋は、まるでみんなには秘密にされている場所のように感じた。

「百物語って?」

「百個怖い話をする、儀式みたいなやつ」

「ひっ⁉」

 僕はそうおびえると、亜黒はししし、と無邪気に笑った。

 僕は亜黒の手札からトランプを引く。数字は揃わない。亜黒のあの表情を思い浮かべ、僕は俯く。亜黒の組んだ脚、股関節の部分、ジャージのしわが、一瞬だけ見え、なぜか僕は弱々しい印象を受ける。

「あ、あっくん……」

 僕はそう言う。あだ名を言うだけで、僕はむずがゆくなる。

「ん?」

「えっと、今日、ごめん……。ピアノの事、口に出しちゃって……」

「……」

「いや、だったよね……」

「……」

 亜黒は黙る。何を思っているのか、僕には分からない。

「俺、まーくんにピアノ聞いてもらってることは、知られるのはいやだったよ……」

 躊躇いがちに、胸にすんと入り込むような声で亜黒は言う。

「まあでも、教室に残ってる方がどちらかというと悪いんだけどさ」

 僕を宥めるような声。

「でもさ、俺はまーくんがピアノ聞いてくれることはめちゃくちゃ嬉しい。確かに今日すげえ黙ってたけど、俺が自分勝手にムカついてただけだから。まーくんは別に気にしなくていいよ。こっちこそ、嫌な気分にさせてごめんな」

 僕ははっと顔を上げる。優しい亜黒の表情を目にして、僕はまた涙を浮かべる。

 僕が今日まで思っていたこと、自分を傷つけたときの痛みや、抱いてきた希望、亜黒を不快にさせた後悔、亜黒の抱きしめてくれるような温かさ。そんな感情の起伏に、僕は耐えられなくなっていく。これ以上の気持ちを背負うには、もうこの体がもたない。すべての罪を消した僕は、どんな感情を抱けば正解なのかわからない。すべての迷いと感情で、僕の心はダムのように決壊してしまった。

「うっ……。あああああっ……」

「まーくん……」

 僕はトランプのカードから手を離す。トランプや布団に水滴が零れ落ちる。

 布団がゆっくりと揺れる。布団とジャージが擦れる音がして、亜黒が僕の所に来ているのだと分かる。

「ごめんね……」

 不器用に、亜黒は僕の肩に手を当てる。

「いや、あっくんは悪くないから……。ちょっと、今日は心が忙しいだけ……」

 ごめん、ごめんと僕は心の中で亜黒に謝る。僕は、僕が殺してしまった相手に慰められている。もうどうしていいのか分からず、ただただ僕は泣いてしまう。今はただ、亜黒の優しさに反比例して自分がどんどん嫌になっていく。

 信弘が来るまで、僕は体内の水分を出し切るみたいに泣きじゃくっていた。


 夜中、僕はふと目を覚ます。他のベッドのランプがついているのが分かり、僕は眠ったふりをして部屋の様子を見る。

 亜黒がトイレへと向かっているのが分かった。

 僕は、邪魔になっちゃいけないと思い眠ろうとする。

 けれど、僕は亜黒の持っているものに疑問を持つ。

 それは、係から支給された、水が入ったペットボトルだった。

 どうしてそんなものを?

 そう思ったけれど、僕は再び襲ってくる睡魔に勝てなくて、また眠ってしまった。


 三日目は、僕はただただ疲れ果てていて、気づけば帰宅して自室の部屋のベッドで横たわっていた。

 


 

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