シャワーよりも熱い涙
「え、全部の席埋まってるじゃん。やっぱ戻ろうぜ」
かき氷が届くのと同時に、聞き覚えのある声が入り口から聞こえた。
「あ、亮二」
隣で亜黒がそう言って、僕は入り口の方を向く。
亮二とその班のメンバーがそこにはいた。
「え、あっくんとまーくん! こんなとこにいたの?」
亮二が僕たちに気づいてそう言った。
まーくん⁉ とまたみんなは驚愕の声を上げる。もうどうにでもなれと、心の中でうんざりした気持ちになる。
すると、亮二がちょっと困った顔で僕たちに言った。
「今かき氷来たところ?」
「うん」
と緑が答える。
「残り時間、あと十分ぐらいだぜ?」
えっ⁉ と僕たちは腕時計やかき氷を見ながら声を上げた。
じゃあねー、と煽ってくるようなにやりとした顔つきで亮二は吐き捨て、その班は階段を下りて行った。
その後、このカフェの席は大食い大会と化した。幸い時間がなかったせいで女子の質問攻めは止まったが。
カフェの席で学生が慌ててかき氷を貪っているさまは、傍から見たらかなりシュールな絵面だっただろう。
その間、亜黒は腕時計を睨んだり修学旅行のしおりを見たりして、まるで高みの見物状態だった。けれど、僕にはその時の亜黒の表情が、とても暗いものに思えた。
さっきの会話で、僕は亜黒の踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまったのかもしれないと、僕の気持ちも沈んでいった。
その日のホテルで、自由時間の中、僕は一人バスタブの中でシャワーを浴びていた。どうやらとある事情で大浴場が使えなくなったらしく、それぞれの部屋のユニットバスを使うことになったのだ。
僕は班の男子メンバーの中で最後にシャワーを浴びることになった。亜黒が使った場所なのだと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
カーテンに仕切られた狭い空間の中で、僕は昨日のことを思い出す。あのバスタブの中の血だまりを。あんな傷を、僕は何回も刻み付けて消していくのだ。この腕にできた傷の色を鮮明に思い出し、僕の細くも太くもない裸の体がぶるっと震え、目を瞑った。シャカシャカと頭を一気に泡立てる。
シャワーでそれを洗い流し、そういえば、と僕は思う。タイムリミットはあとどれくらいか、訊くのを忘れていた。さすがに今日中じゃないとは思うが、すぐに聞いておかないと危ないだろう。
シャワーを止めて次に僕は体を洗い、また別のことを思い出す。
僕が、放課後に亜黒のピアノを聞いていると、佳弥や緑に言いかけたことだ。あの後自由散策が終わり、水族館へ向かった。女子たちはあの会話のことはもう引き摺らなかったけれど、亜黒は落ち込んだ様子でまったく口を開かなかった。僕がカフェであんなことを言ってしまったからだと、僕はずっと後悔していた。
「はあ……」
と僕は自分にうんざりして、シャワーを浴びる。そしてシャワーを止め、濡れた体でバスタブの中で俯いてしまう。
僕は、なんて考えが足りていないんだろうと、自分を責める。
放課後の二人での時間は、お互い何も話してはいないけれど、それでもお互い二人だけの時間を分かち合って、クラスのみんなにはそれを言わないでいた。僕にとってはそれは心地のいいものだったし、亜黒もきっと、おんなじ気持ちだったのだろう。それを僕は、踏みにじってしまったのだ。
だから亜黒は、カフェや水族館で、どこか傷ついたような暗い表情をしていたのだ。
僕はずっと、亜黒にとって僕は何か特別な存在なのだと思っていた。実際それは本当なのかもしれないけれど、そんな僕は、亜黒の精神を傷つけることなんてないとなぜか思い込んでしまっていた。罪のない人間として接していれば、僕は誰も傷つけない完璧な人間であると、心のどこかで思ってしまっていた。
けれど、そんなの絶対に違う。誰だって人を傷つけてしまうし、亜黒だって傷ついてしまう。何も悪くない亜黒は、僕にとっては無敵な人間に見えてしまって、きっと普通の人間とは違う何かを持っているのだと感じた。だけど、亜黒だって一人の人間だ。なぜ僕は、亜黒が傷つかないなんて感覚的に思ってしまっていたのだろう。
いつの間にか僕は、目元にシャワーよりも熱い涙を溜めていて、裸のままバスタブにしゃがみ込んでしまっていた。体が冷たくて、僕は自分自身を抱きしめる。
僕は自分を傷つけても、人を傷つける自分は変わらないと、分かってしまった。真っ白な人間なんていないのだと分かってしまった。
涙がぽたぽたとこぼれ、平らな胸を抱きしめる腕に当たる。
なんてみじめなんだろうと、誰にも見られないバスタブの中で、自分を傷つけても変われない自分を憎悪した。
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