同じセカイへの扉

有未

同じ世界への扉

「私、もうおしまいなのよ」


 ことん、と何処かに落っことすように彼女は言った。


 フローリングの床にぺたりと座り込み、ごとりとスマートフォンを投げ出す。長い髪が俯いた顔に掛かって、その表情は良く見えない。


 そんな彼女の姿を見るのは、俺はこれが初めてではなかった。頻繁にというわけでもないが、俺は彼女と付き合って一年という時間の中で今回、三度目になる「これ」を見た。


 一度目の時は、俺は大層に心配したものだ。そう、思いながら俺は彼女との出会いを思い返す。明るくて、くるくる回るように変わる表情が魅力的で、話が面白くて。


 そんな彼女――城田しろたルルに惹かれて、俺は交際を申し込んだ。ルルという変わった名前にも惹かれた。


 変わった名前だなと俺が率直に彼女に言うと、ルルって本名よ、猫みたいでしょ、と彼女はにかりと笑って言った。


 そんな貴方のお名前は? という彼女の質問に、瀬田せた良平りょうへいと答えると、リョーヘー君ね、と彼女はこれまたにかりと笑って手を差し出して来た。握手、握手と。


 俺達は、お互いの名前も存在も知らなかったのだ。ただ、高校で学年が一緒だっただけで集まった同窓会での出会いだった。


 同窓会の帰り道、俺は彼女の姿を探していた。駅に向かう彼女の後ろ姿を見付けて、声を掛けて。連絡先を交換して。その日の夜から、メッセージの遣り取りをして。週末に電話をして。やがて、デートをして。


 一度目の時は、彼女から短いメッセージが夕方過ぎに届いた。なんか疲れちゃった、とだけ書いてあったそれに、どうしたと送ってみても返事が来ない。心配になり電話をしてみても出ない。彼女の家に行ってみると、インターホンの音ふたつ後に彼女は出て来て俺に抱き付き、泣いた。


 彼女の家に入ってなだめながら話を聞くと、大真面目な声で「もうおしまいなのよ」なんて言う。一体どうしたのか詳しく聞こうにも、泣き声が大きくて何も分からない。聞き取れない。


 俺は、ルルと名前を呼びながらキスをした。すると彼女は嘘のように静かになり、身を捩る動きもやめた。そして「眠たいのよ」と囁く。眠たいなら寝れば良いと俺が当たり前のように言うと、「一緒にいてよ」と子供のような目で俺を見上げて言う。ああ、と返すと、「朝まで一緒にいて。ただ隣にいて、手を繋いで寝て。そうじゃなきゃ泣く」と宣う。ああ、分かったと俺が返事をすると、「ほんとーのホントね、じゃあ布団敷くから。待っててね。ね、何処にも行かないでね」と、再び俺を見上げてルルが言った。


 そして二人で並んで眠り、翌朝にルルは何事もなかったように俺を起こした。「ねえ、起きて。良い朝よう」なんて言って。昨日のことを聞こうにも掘り返すことが躊躇われ、そのままになってしまった。


 二度目は、何だったか。確か、二人で俺の家で酒を飲んでいた時だ。ある程度、お互い飲んだが俺はまだまだ飲めるなと思っていた。しかし、ルルは酒に弱いのか、つまみをほとんど食べずに飲んでいたからか分からないが、もう限界が近そうだった。だから俺はやんわりと、もう飲まない方が良いと言った。


 それだけだったのだが、まるで合図にしたかのようにルルはしくしくと泣き出した。どうした、と聞くと、いつかのように「もうおしまいなのよ」とルルは言った。何が、と聞くと「なにもかもよ、もうだめ、もうつらい」と言いながら泣き声を大きくした。


 俺はまたかと思いながらも、酔っているのだろうとも思い、もう寝ろと言ってベッドにルルを運んだ。するとまたいつかのようにルルは言った。「一緒にいて。ただ一緒に寝て、隣にいてよ」と。


 俺は、ああ、と言って彼女の頭を撫でた。酒が回っていたのか、彼女はすぐにすうすうと寝付いた。俺は隣でルルの顔を見ながら、こいつは過去に何かあったのだろうかと考えていた。


 そして、今回の三度目だ。三度目ともなれば俺の心も慣れたもので、また一緒にいてよと言うのだろうと思っていた。


「ねえ、一緒にいてよ」


 ほら来た。俺は納得し、布団を敷いて一緒に寝るかと思った。だが、どうやら三度目の今回は勝手が違った。


「……ねえ」


「ん、どうした」


「私ね、リョーヘーのこと好きなの。ほんとなの」


 ルルは俺を見て言った。


「ああ」


「でもね、時々ね。がたがたになるの」


「がたがた?」


「もう、全部。全部よ、嫌になるの。仕事も家事も、人付き合いも。お世辞ばっかり言って、世界はもう終わりよ」


「……酔ってるのか?」


「シラフよ」


「そうか。それで?」


「それで? それでねえ、私に出来ることはたいしたことないなって思うのよ。そりゃ、幸せよ。リョーヘーがいてくれるもの。でもね、時々。もうおしまいよってなるの。なんでかは分からない。ただ、そうなるだけ」


「良く分からないな。何がおしまいなんだ?」


「それも分からないの。私っていう存在なのか、世界の方なのか。とにかくもうおしまい、もうだめですっていう気持ちになるの。そうなると、どうにもならない感情でいっぱいになるの」


 ああ、とルルは大仰に溜め息を吐き出した。そして言った。


「ごめんね、こんなんで」と。


 俺は返す言葉に詰まったが、困っているのとは少し違うなと自分で自分を分析した。ルルに言うべき言葉の選択に困っていることはあるかもしれないが、俺はルル自身に困ってはいない。だから、伝えた。


「俺は別に、ルルがどうこうだから困ると思ったことは今まで一度だってないし、きっとこれからだってない。根拠はないが、そう思う。もうおしまいっていう気持ちになったら今みたいに俺に言ってくれたら良いと思う。的確な答えみたいなものは返せないかもしれない。だけど、俺はルルが何を考えてどう思っているのかを知りたいと思う。なあ、今、何をしたい?」


 俺がルルと目を合わせてそう聞くと、ルルは「うんとね」と声に出しながら首を少し傾げて考えている素振りをした。


「オレンジジュース、飲みたいの。それ飲んで、リョーヘーと、ただ一緒に寝たい。隣にいてほしい」


 へらりと力なくルルは笑って言った。


 俺は「うん」と返し、ルルの手を握った。その手は柔らかく、体温に満ちていた。


「一緒に買いに行くか。オレンジジュース」


 俺がそう言うと、「うん!」とルルは返し、俺の手を握っているその手に力を込め、立ち上がろうとした。俺はそれを思い留まらせ、ルルにキスをして抱き締めた。遠慮がちにルルが俺の背中に手を回し、やがてしがみ付くように指を這わせた。


「……オレンジジュースと、チョコレートもほしい」


「どっちも甘いものだな」


「良いじゃーん」


「ああ、良いよ」


 俺達はどちらからともなく立ち上がり、目を合わせて少し笑った。


「行こ」


「ああ」


 ――そして俺達は同じ扉から世界へと旅立つ。そんなことを俺は思いながらルルと手を繋ぎ、外へ出た。

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同じセカイへの扉 有未 @umizou

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