蝉と世間

@chased_dogs

蝉と世間

「あ、セミ」

 声がしたので窓の外を見やると、空から一匹の蝉が落ちていた。蝉はゆっくり落ちて、やがて背の高い竹藪に突き刺さった。背から腹の先へ竹の先端が伸びていくとそれに従って蝉の脚がピンと伸び、すっかり竹が伸び切る頃には、腹に生えた竹の根本を掴むように脚は折り畳まれていた。


 それから竹藪のところには大きな蝉の死骸が横たわり続けている。大人達は何でもないようにその前を通り過ぎ、子供達はそれが何か考えることもなく踏み越えて行った。彼らはいずれも普通の顔をして日々を過ごしている。日に日に背中が曲がり、瘤ができ、羽根が生えて脚が生えても、初めからそうだったかのように通勤し、通学し、行楽し、食事をする。次第次第に人々は蝉人間になっていた。

 変化は姿かたちだけではない。蝉人間たちは、電車にもバスにも乗らず、羽根を伸ばしてフラフラと飛んでいく。何処かの木や家の壁に張り付いて、また何処かへ飛び去っていく。

 最初のうちは、いつから蝉になったの? 蝉になって平気なの? そんな質問を投げかけたこともある。けれど誰も僕を相手にしてくれはしなかった。


 僕だけが蝉人間ではなく、僕だけが蝉人間のいなかった世界を知っている。蝉人間の社会が浸透していくと、次第次第に人間の僕には居心地が悪くなってきた。食べ物は合わないし、会話をしようにも「キョキョキョキョ、キョ、キョ」と金切り声を盛んに上げるので嫌気が差してしまう。

 こんな日がこれからも毎日続くのだろうか、溜め息をつき天井を見つめると、

「あ、セミ」

 声がした。声の方を見やると、窓が空いて外から大きな女の子の手が伸びてきた。それは真っ直ぐ僕を掴んだ。僕は反射的に逃れようと

 女の子は僕の身体より大きな瞳でただ僕を見つめている。その瞳には掌ほどの大きさの蝉が映り込んでいた。


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