落夕(らくせき)

荒川 麻衣

この作品を長石監督に捧げます。

 胸が白きはむなしろか

 あたかもあたるはむなしろか

 むくわれないのはむなしろか


 この因習の地、むなしろにおいて、殺人事件の起こったのは、先だって三月のことである。 

 隣の人間を、何ヶ月も、見ていない、隣人は一人暮らしで、匂いがしないが、なぜか、異臭がする、と。

 その死体が異常なのに目を見張った。おそらく、突然死ではないか。

 と、思って、この、水道局に来たのである。

 水道局に行くのは、二つの理由がある。ひとつ、異常なる死が、本当に異常な死か検討する場合。

 もうひとつは、その死体が、いつまで生きていたか、その死体を見た検死結果と符合するか、のどちらかである。

 だがしかし、と「彼」、は思う。

 死体は、日本で起こった場合、フランスやイタリア、ハンガリーと言った「後進国」にも劣るのだ、と。後進国であったフランス、イタリア、ハンガリーといった国で、外国人たる日本人の死体があがれば、まず、検視に回し、コールドケース、未解決事件として手厚く扱ってくれたし、おそらく、きちんと、いや、海外ドラマの見過ぎだ、それでも、自国の民が死んだら、徹底的に検証する、それが、死体の役目、役割だ。

 だが、この国はどうだ。外国人であれ、日本人であれ、異常死、日本で死んだら最後、適当な死因でもって、六フィートアンダー、死体のまま葬るのでなく、高音で焼いてしまうため、よっぽどのことがなければ、死体を目にする機会も、死体が手厚く語る機会もない。今回だってそうだ。警察がすべての死体、異常死を扱えるほど、この国において、警察官も、自衛隊も、そして。

 手を止める。

 異常な死体を発見したのは、水道局のメーター、水量をチェック、見聞するものである。こんにち、水道局の地位は低く、日本全体の9割で、水道局本人ではなく、水道局に委託を受けた、フランスの水道会社、日本の水道会社と言った、食い荒らしたハゲタカの主戦場となっており、ここ、水の都、森と水に囲まれたむなしろ、も例外ではない。明治の維新につけられた名前を忌み名と嫌い、「水戸」と呼ぶ人もいるが、こんにちでは、めったにいない。

「水戸市、いや、合併して、むなしろ市、ですか」

「言い慣れないです」

 コールドケース、要するに鋭意捜査継続案件とするか、そうでないとするか、会議は荒れに荒れた。

 水戸っぽ、水戸という名前が消えても、その気性はやわらぐことはない。むしろ、その正義感でもって、合併した市町村すべてを管轄に入れるから、バタバタと兵隊が死ぬ。

 と思っても、「彼」には、意見することがなかった。「場」がないのだ。


「彼」が夢をあきらめたのは、15歳の時と記憶している。「彼」自体が水戸一高への進学を決めた頃で、立身出世にまい進します、と、育ての親たる、自分のおばにそう宣言したものの、こころは、荒れに荒れた。

 「彼」に恋人ができた、と噂されたのは、いつだったか、わからない。この仕事は、表に立つ仕事で、実力がある奴は、全力でつぶしてくる。「彼」が気づいた時にはもう遅く、気がつけば、田舎の街は、繰り返し繰り返し、ずっと、「彼」に問うた。「あなたは、」と。

 「彼」が舞台を降りたのは、誤解を解くためであって、けして、夢をあきらめたわけではなかった。しかし、噂はどんどん激しく、そして、自分自身を燃やしていく。仕事に打ち込んだ、という実績がすべて、毎週末、自宅に「男」を連れ込み。

 「彼」は、同性愛者ではなく、異性愛であったことも、業界では災いした。この世界、「両性愛」と語れば男女両方から陵辱を受ける、「異性愛」とうち明ければけして、そう、けして、異性からの愛は受け取れない。「彼」は、珍しく、異性愛でもなく、同性愛でもなく、彼は彼だった。

 こんな人間は珍しいと思うが、「彼」には、後悔があった。自分自身、全力を尽くさないで、恋心に惑った、好きな男の子の前で照れ臭くて演技ができなかった、という後悔は、いまだに「彼」をむしばんでいる。恋心は、その死をもって、捨てた、最初のファン、花を送ってくれた、いわゆる「紫の薔薇の人」は政治秘書であり、「彼」の舞台後に意識を失った。また見てほしい、という後悔は、けして何事にも変えられず、「彼」を変えた。どこまでも全力で、それでも思春期だから声は変わり、徐々にその身体は、「彼」を男から女にかえ、どこにもいけない身体となった。男役として生きていくか、娘役として生きていくか、それでも、第三の道を行くか。

 選んだのは第三の道だった。手元にある、恩田陸の、六番目の小夜子が決め手となった。海外留学が、いとこと違って、海外に逃がれられないのであり、青山へ逃げる道は、自分から絶った、東京行きの切符を自分から断ったのは、まだ、ここにいたかったからだ。さふくんは、東京に行ったのだというのに。


 さふくんが死体で見つかった、と聞いたその日は、誕生日だった。

 何の接点もない、さふくんを同期だと思い込んだ。


 その、「彼」が、死体となった、死体として生きていくのを決めたのは、それからまもなくのことである。


 つまり、「死体」は、彼自身であり、隣人からの通報、検査員からの通報は、生活が変わり、人が変わった、ことからの通報である。


 コロナ禍、2020年において、魂の殺人、芸能人の不審死は相次いだ。特に、さふくんに関しては、ずっと報道が、供養が続いており、さふくんが死んだ原因を求める、市民的な活動は、2023年現在、水面下で続いている。あんどうさふくん特集は、とある雑誌の看板になり、毎号毎号、さふくん仲間として、彼の遺志を受け継ぐ者がいて、彼の遺言、言葉を継ぐものがいた。

 しかし、「彼」は、さふくんと共演経験がない。同じ時期に天才子役たるさふくんは、東京に近い場所で活動していたため、土浦でその実力を開花させていた。「彼」の活動範囲は限定的で、当時「水戸」と呼ばれるその場所は、特急を乗り継いでも、2時間強はかかること、特急自体本数が少なく、常磐線が悪名高い人身事故の多い土地柄、なおかつ、この場所は、「森と水に」囲まれているが、それは「森」ではなく、「防風林」であり、要するに、「ウィンドブレーカーズ」のために、風で電車が止まるので、常磐道がいくらいつも空いているとは言え、遠いのである。


 上京、つまり、東京へ出るか出ないか。これは、茨城県に住む人間にとって、特に芸能の人間にとって、これは一大事である。なにせ、県内にだって発表の場はいくつもあるのだから。わざわざ都内に出なくても、それでも、東京に出るということは、それは、実家を出て、故郷に錦を飾る、という意味である。土浦であれば、日帰りできるが、どうしても、この、「水戸」、要するに、友部、かつて坂本九が疎開して逃がれてきた「笠間」が境界線となる。そこより西に住めばギリギリ東京に通える可能性がこんにちでもあるが、新幹線がない、拒んだために、山形、新潟、長野と言った、越境通勤、通学がかなわない土地柄、この「くに」においての、「江戸」「東京」は、それほど遠い場所、なのだ。


 「彼」は、2022年から、休養を命ぜられた。突然の発狂、精神的なものと思われる、休暇の連発、休まず、遅れず、仕事せず、の場所において、ワーカホリックで死にかけた彼のこと、どうしても「バランス」は、くずれた。

 いまだに、2023年をむかえても、「彼」の心は好転せず、晴れぬまま、である。


 それ以来、休養を命じる、という日々から、もう何ヶ月か経った。夢をあきらめた「彼」にとっては、後輩が「今度舞台に出るんで、見に来てください」は、重荷である。すでに、30いく年か暮らしている「彼」には、後輩がいくらかいるか把握は難しく、すべての「後輩」の頼みを聞く、後輩の助言は素直に受け取る、かはもうすでに、「彼」は、自分で選び取ることを選ぶしかなかった。つまり、すでに寿命が見えており、「40より能は下るべし」である。40まであと少しである「彼」にとって、それは、仕事をどう決めるか、向かう方向はまだ先だった。不惑ではなく、40をすぎると、得意なこと、ある程度の無理が効かなくなる、とは聞いていて、「彼」は、脱力も、身体感も欠如しており、斬られなければ生を実感できない斬られ役としては、どうしても、自殺、死を思うのか、死に傾く。それにより、常に彼は、命、自分が生き残った意味を考え続けており、仕事、つまり、たとえ給金が発生しなくても、恩義はある。それゆえに、自分の立場、「役人」という、下手に動けないがゆえに「安全」である。その立場こそが、「彼」を苦しめた。

 欲望という電車に乗って、が合うとは、「彼」は聞いていた。ローラよりはブランチ、きわこに似ているから、と。きわこというのは、欲望という名の列車に乗って、かえってこなかった人をいう。ゲネプロ、関係者向けのお披露目はものすごいできで、それをみた人間の中で、今でもなぜ、本公演につなげられなかったのか、きわこが死を選んだことも、その場にいたいくつもの人間が、きわこを助けられなかったすべてを含め、文学座という場では、とむらいの意味、反省も込めて、第2のきわこは出さない、徹底的な支援を続けていた。欲望がかからなくなったのは、杉村春子の死が原因ではない、若いにもかかわらず、きわこの死を、要するに逆縁へといたる道をふせげなかった、三島由紀夫が出て行った、マオイズムで文学座が分裂した騒動より、偉大なる女優の死がいまだに続いているのを知って驚いたのは、渥美博の稽古を受けてからだ。


 おそらくわたしは、斬られること、死によってしか、生を実感できない。すべては殺陣に通ずるのだ。死は、わたしに覆い被さり、東日本大震災が、阪神、千葉、北方沖、すべての地震が、東海原発事故、チェルノブイリが、1986年、1984年から経つこと2年、それこそが、1986年7月に生まれたわたしは、少なくとも、一時期、山形と水戸を行ったり来たりしており、合間合間に、東京ディズニーランドで迷子になっており、かみね動物園やら笠間の運動公園で迷子になるため、おば夫婦の手を焼いた。


 たまたま。人に恵まれた。だから、神隠しに合わず、ここにいるのか、どこかの神さまが、こいつを天界で引き受けても地獄に送り込んでも無駄なので、しばらく現世でどうにかしてほしい、というただの判断で、仕方なくここにいる。


 要するに、いつお迎えが来るか、「彼」、いや、南部麻衣、か、荒川麻衣、と戸籍で称され、いくつものラジオネーム、役名を持ち、コードネーム「夜凪景」と呼称される「彼女」は、すでに、限界を迎えていた。


 何年も何百年、百年経ったら意味がわかる、と寺山修司は書いて死んだ。百年経ったら迎えに行きます、と漱石は書いた。三島由紀夫は。


 百年。百年は、卒塔婆小町でも出てくる、深草少将にあたる女は、いかにもみすぼらしい風体、これがかつての華族であるのは明白で、太宰、太宰治を失った彼は、どうしても、「斜陽」を自分なりに解釈して、影響をパッと受けて、これが現実だ、華族、華麗なる一族の、成れの果てを、山崎豊子とは違う視点から見つめ直した。時には娼婦のように、なかにし礼は、自分ではなく、別の人間に託した、彼の歌は、歌声は別人級にうまい。異常なまでのうまさは、詩を書くには、詩人としての彼は尊敬の対象だった。

 ゆえにミシマは、彼は、華族の終焉を見届けたあとに、市ヶ谷で死を迎えた、その音声は、いまだに、パウロ会につながる文化放送にある、国営ではなく、なぜキリスト教が、彼の魂のこもった演説を残したテープを保管しているのか、それも綺麗な録音で、まるで本人が話しているかのような、役者として目指したい最後の朗読は、何もできなかった、かつての文学青年を自衛隊へと向かわせ、市ヶ谷でのちの浅田次郎がどう思ったか、勇気凛凛瑠璃の色にはあるが、それを引用するのは心苦しいほど、わたしは、ミシマに、浅田次郎に影響を受けている。ミシマの戯曲はわたしの目指すところであり、浅田次郎の随筆は、非常に個人的には感謝と憎しみが詰まっておる。


 理由は明白で、つまらない本に飽きたわたしがたまたま、水戸一高の図書室で読んでしまったのが、浅田次郎のクソの話とゲロの話で、それを読んでケラケラ笑っているのに気づいた時にはもう遅く、笑いが止まらないのである。やつはすごい。随筆としては、辻仁成はぼっちゃんなので、なーんの影響も受けないが、浅田次郎は落語とミシマが入ってくるので、強制的に憧れのミシマ先生よろしく、硬軟取り揃えており、めちゃくちゃに面白いのである。ゆえに、三島由紀夫の随筆は手に取ったものの、わたしにとってのバイブルであり、町田のブックオフで大切に保管されていたヒト様の本は、引越しを経て大事に保管してある。かさばるが仕方ない、紙の本は増えるが、東日本大震災の影響で、質感が変わったため、この勇気凜凛ルリの色はいまだに手元にある。読んだら最後、笑うので仕方なく、自宅で笑うしかない。これは電車で読んだら不審者扱いで飛沫が飛ぶ。やめなさい、インフルエンザでなくても不審者扱いはまぬがれない。


 ビーアンビシャス、我が友よ、冒険者よ、を聞きながら上京したものにとって。そして、東日本大震災でぼろぼろとなり、カバンや、身の回りのものを捨て、被災者のもとに身を寄せたわたしは、いまだ、ブランチの呪いが解けない。


 「彼」の話に戻ろう。彼、として生きることもあれば、性別のない、ただの人間としての扱いを望めば、それは、「わたしは、自分自身を人間だと思っている」そう、ブルース・リーはカナダのテレビ局で、ロスト・インタビュー、行方不明の対談映像には、そう語る彼の姿があり、わたしは、それを見て育ったカナダ人から禅と、日系語を学んで育った。日本語というのはいくつかあり、彼がわたしにとっての師匠である。なにせ、マスター、成し遂げたのは雪の降る寒さの中、自然と身体がぽかぽかしてくるまで座り続けたというもので、女人禁制だが、外国人、要するにくるもの拒まず、の一流についており、仕方なく、というべきか、要するに、大偉人の老師、ラオスーではなく、ろうしと読む、これについて学んだものの、道を友部とさだめ、合気道黒帯を目指しており、要するに、めちゃくちゃ強い方で、この青い目をした東洋人について習ったがゆえに、国内亡命は、結局はわたしを日本人たらしめた。


 要するに、海外に出なくても、日本のコミュニティ、共同体から逃げ込んだ先に、亡くなったお姉様が開く私塾により、猫と毛に塗れて生活していた。


 それより前は、海軍出の先生につき、特攻隊でなく、国をうれえるがゆえにみずからのいのちを差し出した、とある男性に先立たれ、結局のところ残りの人生を教育に捧げた、教職追放からギリギリ逃がれた片山先生という人がおり、この先生に私は、面倒を見てもらっていた。


 彼、は、結局のところわたしであり、私自身である。私の中で、「彼」は、確かにここにいる。時としてジュリエット、ロミオ、他の人格として、目の前に。

 さふくんとわたしが同期と知るのは、2023年1月2日から数えることしばらくのこと、突然のひらめきだった。

 

 それはまったくの偶然である。彼から、さふくん自ら、わたしのところを訪れた。不思議なことに、死者というものは、不思議と、私の近くに現れる。

 具体的にいうと、たとえば、道の途中、それはひかれるのに、姿があるのは間違いなく、霊。

 たとえば、トイレ。昼間に来て、出てこなかったのは、どうも、死者、らしい。私の元に来る死者は、必ずと言っていいほど昼間に、人間として、普通に「いる」。ので、死者と、人間は、境界線がない。


 その日、わざわざ彼が来た。それは、絶対に男性が入れない、むしろ、そこは個人的な空間で、彼が入れない場所にわざわざ来る、ということは、さふくんとの強い繋がりをさし示していた。


 どこだ。

 さふくんと、わたしが同期だというしょうこを探せ、どこだ、と。

 わたしは、必死に探した。


 アスク。エンドイッシャルビーギブンユー。

 もとめよ。さらばあたえられん、と訳したものがいるが、実際は違う。

 このまま訳すと、

 もとむれば、それが与えられることもあるだろう。シャルは、確定を必ずしも意味しないのだ。


 である。要するに、聖書というのは、論語と違って、あいまいである。

 

 それはイエス・キリストが実在か非実在かわからないためだ。

 ブッダは実在が確定しており、マホメットも実在が確定している。

 だがしかし、イエス・キリスト本人がいたか、となると、徹底的に調べたところで「いたかいなかったかわからない」、とわたしは聞いた。


 キリスト教はそういったあいまいな産物であり、各地に隠れキリシタンが転がっていた関係で、水戸の聖母幼稚園と、山形の幼稚園は、同じ女子パウロ会だが、水戸の聖母幼稚園はお受験があり、山形には、ない。現在は、聖マリア幼稚園だろうか、名前が変わっているかもしれない。


 ゆえに、水戸の聖母幼稚園ではわたしは肩身が狭く、キリスト教においては、飛び交う英語は外国語であり、山形とはまるで違う場所に来たことで、理想と化した山形を、わたしは現実に受け止めることが難しかった。


 君がまだ三つか四つだった頃、まだ君は二歳か、三歳か、四歳かで、もしかしたら、花笠音頭を踊る私とは、山形市内ですれ違っていたかもしれないが、母の記憶があいまいで、写真を見ない限り、わたしが世に出たのがいつかはわからない。

 大きくなったね。君は舞台を知らない、まさかその後舞台にいくつも立つなんてわからずにそこにいる、自分自身がそのあとどうなるかわからないまま、君はそこに立っている、ずいぶん時間が経って、おそらく、わたしは、かつて水戸を訪れた魯迅のように「ここがわたしが思った故郷だろうか」寺山修司じゃあるまいし、いつでも帰れても、それでも、水戸は、山形は、東京からは遠い、北海道は、釧路は、帯広は、とてつもなく遠く、札幌までの道行は、母との最後の旅行で「負け犬の遠吠え」では、母との二人旅行は、とあるが、残念ながら鷺沢萌とは違い、岸辺の駅にはならなかった。彼女の小説が好きで、参考書で読んだ中で一番好きなのが、岸辺の駅で、これを超える小説は、いまだかつてない、電子書籍で読んで、あの、参考書での衝撃とともに、その死をうらんだことを思い出す、一度は会いたかった、だから辻村深月さんには会い、かがみの孤城を知り、わざわざ、アニメ映画版を見た、素晴らしかった。 


 確かに、六番目の小夜子にあるように、もっと早くに会いたかったが子供の頃の傷ついた自分は、まだそこにある、いるのだ、ずっと、願ってもいなくても。 


 わたしは、時々、石を投げ込んでみる。六番目の小夜子の黒川先生みたいに、それはまるで、タイムレンジャーとして戦った和泉宗兵さんが、舞台黒執事で、石を客席に向かって投げ込んだように、だ。

 カオス理論、バタフライエフェクト、蝶の羽ばたき効果、そう、その雨は、小さな虫が引き起こした風によるものかもしれない、という非ユークリッド幾何学における、相対性理論かもしれない、小さなさざなみが、元に戻ったとして生態系に影響をあたえる、ゆくかわのみずはたえずしてもとのみずにあらず。


 要するに、ワッフォアネーム、ワッフォアナイム、とロンドン下町では、オーストラリア英語では、なまる。オーストラリアは、ロンドンの恥ずかしい部分を引き受けた、ロンドンシティ、ロンドン橋が落ちている、下へと、ロンドン橋が落ちている、下へと。


 むなしろのまちは、水戸の町は、いまだに、とおりゃんせがよく似合う。かつての街は、もうない、栄枯盛衰、なつくさどもがゆめのあと、とばかり、わたしが、かつてあとを継ぐことをやめた家は、実家の店は閉まる。


 それは、因果応報というやつだ。わたしのおばはね、実は、自分の育ての親が経営する店のしまったあと、土地を見捨てたので、銀行が買い取ってくれて、今は立派な建物、絶対に国、外国に渡らないよう養生してくれている。あそこにいくたびに銀行憎しと思ったが、結局のところ、我々は、因果応報、見捨てたら、自分にかえってくる。


 その土地は、手放さないのだろう。しかし、受け継ぐ人がいない、わたしはもう、戸籍を抜けたので、おばとも、母とも縁のない、ひとり戸籍になった、成年被後見人が必要な身分ではないように、周りが手配してくれたから、後見人の手続きなしに、わたしは、養生できる。


 もしかしたら、生前出家が、在家出家は。


 わたしは、さふくんを思い出す。


 さふくんからの遺言ではなく、長石監督だった、と気づいたのは、それからしばらく経ってからだ。


 カメンライダーアウトサイダーズ、それは、カメンライド、ドラゴンナイトの正統続編、正確には、おそらく、ドラゴンナイトの世界である。その時、わたしは、人を探していた。舞妓はーん、という東宝の映画で、ゴジラの撮影所、聖地巡礼を行なう予定が、なぜか集合場所は大泉の駅である。


 お待ちしてました、と通されたのは、東映である。会社が違うと、あいまいにうなずいたが、なぜか、撮影場所では、優遇措置を受けた。


 寅年生まれなのに、トラに向いていない。 

 それを聞いたから、勉強のため、公募エキストラ、事務所を通さないで、自分で交通費を出して、現場には通っていた。


 朝起きたら身体が動かず、断りの電話をベッドの、そう、女子寮はブリックス、町田市にあるもので、その一室は個室なので、個室から携帯、当時はガラパゴス携帯と言って、ウイルス、要するに当時から海外では携帯電話向けの増殖が始まっており、日本は形式が違うため、その被害を免れていたので、気軽に、ハッキング関係なく、盗聴等のおそれを知らずに送っていた。その身体は、手入れ、栄養、すべてをおこたったために、アイドル時代の精神は、身体はすでに、歩き回れる体力すらないほどに、眠り込んでも翌朝は激痛で目が覚めたり、一歩も動けなくなるので、大学にはしばらく通ってなかったし、やっと見つけた小さな、画面に映るかもしれない、と最初に行った、その現場は。


 吹きさらしの屋外、忘れもしない、それは鶴見女子校の外、異常とも言える強い風は、撮影時間は結局、昼間ではなく、夜に終わり、抜けた先は墓地だったのでそれを突っ切ってネオン街を走り、あれほどあかり、わい雑なあかりに助けられたことはない。夜の横浜ほど、霊を感じた場所はない、ビリビリと、境界線にいる、あそこは。


 池袋もそうだ。サンシャインに行けば、後ろには、壁に人が塗り込んであるのか、2005年になっても、上空には黒い影があり、仙台の物産館を覗き込めば、とんとん、と、人がわたしをたたいた。


 それは、影もなく、振り返ればそこに誰もいなかった。

 その頃、殺人事件が起きており、それは、おそらく、人ではない。

 人があんな高速で気配もなくいなくなるはずもない、ときどき、死者は私の腕にとりすがり、死なないで、と。蜘蛛の巣がないのに、蜘蛛の巣につっかかることは多数あった。


 その頃出入りしていた、江原啓之さんの雑談掲示板で、わたしは、この疑問を問うたことがあった。


 「これ、わかる人いますか、蜘蛛の巣がないのに、蜘蛛の巣みたいに、腕につくことがあるんです」

 それが霊だ、とわたしは聞いた。それでも、信じられなかった。自分が霊感のある人間?だとはにわかに信じられずにいた。


 ししゃは、死者、使者は時として生きている人間の形をとる。


 そのことに。気づいたのは、メガレンジャーを見た時だ。


 それは、毎週夜の、そう、毎週木曜日夜10時半から40分だけ放送の、「高橋健介のひとりじゃいきてけない」まぁ、人間はひとりでは生きていけないので、それも道理だ。


 彼が、1月最後の放送回で、しきりにメガレンジャーをすすめるので、見たところ。

 途中で突然、見るのをやめた自分に気がついた。

 そういえばわたし、長石監督の話を聞くと、自動的に涙が出るな、と。


 長石監督を、手元のiPhone8で、ダックダックゴーで検索してみる、画像を見る。


 この人だ、わたしの話に辛抱強く付き合ってくれた人、長石監督だったんだ、生きているはずないんだ、と気づいた。


 そこから、わたしは、考えた。

 流通経路に載せる方法、あのロケバスで、長石監督からの伝言、もはや遺言である。この言葉をもって、わたしは、芸能界はほろんだ、と、コロナ禍にそう思い込んだのだから。


 これは、実話ではなく、フィクションである。作り話だと思って、そう聞いて欲しい。


 わたしは、こう聞いた。

 遺言を、読み上げます。


 もしも深作監督が生きていたら、あなたは東宝に行けた。深作監督は、その他大勢を大切にする人で、バスが出た。

 しかしもう、亡くなってずいぶん経つ。ゆえに、もう、エキストラ、その他大勢を公募に頼るようになったから、日本映画界はもう終わりだ。

 だから、これからは落日、らくじつ、滅んでいくしかない。ただでさえ、大船が、蒲田が亡くなり、京都ですら存続があやうい。きみは、大泉、ここはすごい、と言ってくれたけど、京都はこんなもんじゃない。


 深作欣二の後輩だと聞いたけど、深作作品を見たことは、ないか。蒲田は見たほうがいいよ、舞台版とずいぶん違うから。


 すすめに従って、深夜放送で蒲田を見た。確かに、舞台版と違う。


 舞台版では、こうだ。

 「わたしの弟、階段落ちで死にました」

 繰り返し繰り返し、壊れたレコードのように、弟を階段落ちで失った女性が出てくる。これは、水戸のACM劇場というところで見た。

 そして、「靴下、はかせてくれ」と、目の前で靴下を履かせる小夏を見た。

 

 そう言った名場面はいっさい削られ、深作節満載であるため、舞台版にはないが映画にしかないセリフがごろごろしており、つまり、あそこの現場にいた青年が、堤真一という人で、真相は、彼が役者としてかえってきた、ジャパンアクションクラブを抜け出した二人目の成功例、それは、唐沢寿明に次ぐ実力者で、わたしは、貴重な現場に、生瀬勝久と、阿部サダヲと、そう、その場にはいなかったが、バトル・ロワイヤル出演の柴咲コウと、共演した、画面の中で。

 大きなスクリーン、待ちに待った公開、画像の中に、大画面に、わたしが大写しとなった。間違いない、わたしだ。それは一瞬で、誰にもわからないかもしれない、けど。


 「カメラの目に映る偽りの恋でさえ」とはよく言ったものだ。

 カメラの目に映る偽りのわたしは、しみもそばかすも、編集か、照明のおかげで見当たらない。下手くそな演技も、あの場所で感じた熱量もそのまま、完成品を見て、現場とは違い、わたしの声は使われなかったけど、女子寮の門限に間に合う時間に返してくれた、あれだ、水戸黄門でよくある、「御恩は一生忘れません」、だ。


 わたしが特殊撮影作品を見るのを再開したのは、けして、植木等の遺作に、エンドロールに一緒であること、推しとの最後の共演にギリギリ間に合った世代で、わたしは結局、いつも最終列車飛び込んでいく。


 ギリギリ間に合ったわたしは、それから、ゲキレンジャー、キバ、ディケイド、ダブルは全部見た、わたしは、あの撮影所を出てからも、恩が忘れられず、腐らずにここにいて、結局、あの撮影所を出たあと、役者を引退していくのを見守って、結局は、水戸芸術館、ACM劇場、あの日、あの場所で、舞台の神様に約束を交わしたのになぜか、わたしは、戻ってきた。


 死者は、いない。わたしを知っているものは、もういないだろう。


 わたしは、春馬くんの意志を継ぎ、手元の台本を開き、小泉八雲の文章を、壤晴彦さん監修の文章を読み始めた。


(完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

落夕(らくせき) 荒川 麻衣 @arakawamai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ