第344話 ネロのレッスン

    ▽第三百三十五話 ネロのレッスン


 私は【理想のアトリエ】にてダンスレッスン室を作りました。

 アトリは【神偽体術】によって美しい動きが身についています。しかしながら、ダンスとは時に美しいだけではいけません。


 時に切り刻むように鋭く、苛烈に。

 時に切なすぎるほどに甘く、もどかしく。

 目撃した人を蕩かせるほどに……表情豊かでなくばいけませんね。


「はい、いち、にー、さん」

「っ!」


 ぱたん、とアトリが転倒しました。

 私が操作する闇の人形との舞踏中のことでした。さすがのアトリでも私の全力のダンスにはついてこられないようでした。


 激しく動いているわけではないのですがね。


 今までソレが可能だったのは陽村くらい。

 あとの相手とはクオリティーを落とさざるを得ませんでした。自分一人が神であれば良いソロではなく、社交ダンスなどはコラボレーションですからね。

 クオリティーを落とすことによって、かえって完成度が高まることもございます。


 それは社交ダンスの面白み、そして美しさの深みでもありますね。


 思い返せば月宮などはダンスがド下手でした。

 他者の感情を塗り潰すことが得意な彼は、自分の感情を表現することが下手だったのかもしれませんね。才能がありすぎる、というのも困りものです。


「ふふ」と思わず笑みを漏らした時。

 アトリがぽてん、とまたもや転倒してしまいます。


「少しレベルを落としましょうか、アトリ?」

「頑張る。ですっ! 神様に追いつく……ですっ!」

「ほう。まあ転倒したところで痛む体でもないでしょう。私のクオリティーに追いつけねばずっと転げ回る一方ですが、覚悟はよろしいですね?」

「ですっ!」


 それでは、とまたもやアトリが地面に転がります。

 研ぎ澄まされた足捌きは凶器に等しく。完璧というのは「人の身」で行えないからこそ完璧と呼ばれるわけです。


 今、アトリが行おうとして転んだステップは、五段階前から肉体を準備しておかねばできない動きでした。骨の使い方がまだまだですね。


 私はできる。

 アトリは「まだ」できない、それだけのこと。


「ダンスとは肉体で行う表現です。肉体を動かすのとは訳が違います」

「表現……ボクは表現は苦手。です……」

「感情を声ではなく、言葉ではなく、身体で演出するのです」

「どうする。ですか?」

「それを考え、実行するのが今ですよ。色々試しましょう。違えばやり直せば良いのです。今は失敗を畏れる段階ではありませんよ」

「畏れない……ですっ!」


 私は天才です。

 けれど、間違うこともあります。しかし、間違いをそのままにやり続けるのではなく、間違いを悟り改善して即座に実行できるのが天才と呼ばれる所以。

 

 間違ったまま、愚直に回数だけを重ねるのが凡人と言えるでしょう。


 これは球技の天才から伺ったお話ですが、究極のところ「素振りは一回で良い」ようです。フォームを究極に近づけることが目的なので、回数は体力を付ける以外では無意味とのことでした。


 とはいえ、一回で究極には辿り着けないので、何回も行うようですけれど、同じ素振りは一度として行わないようでした。

 毎度、素振りでは「理想に近づける」ために動きを更新するとのこと。


 今、アトリにもそれが求められています。


 芸術に答えはない。

 ですけれど、より美しい選択肢はあります。より耽美なる回答がございます。答えがないということは「何でも良い」という意味ではないのですよね。


 現代アートについても「なんでもアリかよ」なんて言葉があります。

 何でもアリなのですけれど、そこには「芯」が必須。私たちはその「芯」の善し悪しを評価しているのであって、奇抜さを評価しているわけではないのですよね。


 順序が逆なのです。


 描きたい理想があり。

 それを演出するための手段として、既存の方法が使えないから「奇抜」に見える方法を使っているだけなのですよ。


 まあ、ただ奇抜にすれば良いと思っている芸術家擬きはたくさんいますがね。

 唾棄唾棄と飽き飽き。

 私も「奇抜なだけ」と言われることは多々あるので文句ばかり言えませんがね。私の作品を目撃して「奇抜なだけ」なんて口にできるなら、そいつは大した奴だと思いますけど。


 そんなこと言わせるほうが悪いのが芸術の世界。

 素人や評論家気取りのくだらぬ感想をぶち殺せる、、、、、ことこそが「芸術」の最低条件です。

 このゲームよろしく「雑魚は無価値」なのが芸術でした。


 アトリは無価値にならぬために頑張っているようでした。

 幼女の汗がレッスン室に輝きます。あまり汗をかかないアトリですけれど、私の本気のレッスンは甘くないようでした。


 しょうがありません。

 汗をかかないのは無駄な動きがないから。


 芸術には動きとして無駄なところが多数必要となってきます。もちろん、芸術にとって無駄ではないのですけれど、純粋な動きとしては無駄や余計で着飾りすぎています。

 頑張ってもらいましょう。

 舞踏会、優勝は私たちのモノ! 優勝とかあるのかないかも知らないですが。


       ▽

 かなり動きが見違えてきました。

 アトリにも「表現」の何たるかが見えてきたようですね。あとは「指先」「足先」などの先端を意識するともっとぐっと変化してきます。


 ダンス素人は指の表情を甘く見ますからね。


 踊る時、手が握られているか、開かれているかでまったく話が違います。開くにしても、どのように開くのか、関節のすべてを自在に操作せねばなりませんから。

 経験者と未経験者を見抜く時、指だけで判断できるのです。


 もちろん、指の使い方が上手い=ダンスが上手いではありませんが。

 髪の動き、汗のかきかた、呼吸で膨らむ胸の形、息、風、あらゆることを表現の道具とすることが最初のステップなのです。

 すべてが表現のための道具。

 自分の身体を、世界を「表現」と「芸術」の奴隷にするところが芸術家のスタートなのです。


「こ、こわい……です」

「どうかしましたか、アトリ?」

「なんでもない。です……」

「ならば良いのですけれど。それにしてもアトリのダンスはアレですね、ちょっと……」


 ちょっとエロティックと言いますか。

 妙に妖艶で官能的でした。


 私は感情を乗せろ、と言いました。ダンスに向ける感情によって、踊り方というのはまったく異なってきます。

 動きに鑑みると……アトリは私と踊る時、「嬉しい」や「楽しい」とは思っていないようでした。ジャンルとしては陽村に近いかもしれません。これでは求愛ダンス……というのは嫌な言い方ですけれど、人前で披露するタイプのモノになりませんね。


 これは個人に対して「好き好き」と連呼するようなダンスです。


 愛や親愛、信仰の表現としては正しいのですが。

 ちなみに私が審査員を務めたコンクールで、もっとも「こういう芸術」だったのは舞台でいきなりセックスを始めた人の作品でした。凡人たちからは「ただの性行為」に見えたかもしれませんが、あれは中々に悪くない作品でしたね。


 愛、生命力、悲しみ、慈愛、生きることへの執着、生物としての誇り。

 そして、そこにわずかに潜む見苦しさと生々しさの天秤。

 あらゆることが伝わってきた、立派な演技であり作品でした。

 見る者が見れば「ただの行為」ではなく、すべての動作が考え尽くされた演舞だと見抜けた。


 それを一位にして炎上したのは悲しきこと。ムッツリロキというあだ名が付けられたこともありますけれど、あれを選べる奴がムッツリ……? とずっと根に持っています。


『あれを止めようとした奴を止めるとか、どんだけ見たいんだよ天音ロキ』

『あれ、逮捕すべきじゃね?』


 とか。

 マジでくだらないですよね。嫌いです。

 観客が『興奮してるだけじゃねーの、天音!』っていうものですから、私が「では、私がそういう気持ちが如何に皆無かを脱いでご覧に入れてやりましょう!」と脱ごうとしたら止められました。


 まあ、あそこで脱いでいたら、私の分はただの公然わいせつ罪ですしね。

 止めてくれた陽村と月宮には上限のない感謝を捧げましょう。


 仕方がありません。これではアトリのダンスレッスンになりませんね。

 私はセックとシヲ、それからたくさんの執事、メイドゴーレムを呼び寄せました。そしてアトリの相手をさせます。


「む」

『――』

「だまれ」


 私とのダンス(影人形でしたけれど)が終わったので、アトリはややふて腐れているようでした。何度も思いますけれど、アトリは無表情なだけで感情は豊か。


 かなり露骨にガッカリしているようでした。


 さてダンスレッスンは続きます。

 今までの育成でもっとも気合いが入っていると思われることでしょう。しかしながら、私の本来のフィールドなので手抜きなどできるはずもなく。


 私を除いてもっとも表現が得意だったのはロプトでした。彼はゴーレムロボットたる肉体ながら、己が表現「殺戮したい」を上手く演出できています。

 それもまた芸術。

 一流には遙か及びませんけれど、素人にしては必要十分でしょう。


 誰もがロプトのダンスを見れば、こいつ殺戮してえんだな、と理解できます。


 次に面白かったのがゴーストドラゴンたるドローミ。

 あのドラゴンは踊りませんでした。ひたすらダンスパートナーをおちょくって遊んでいましたけれど、それもまた芸術。己が「おちょくり回したい」という欲求を上手く形にできていますし、悪戯の形も中々にセンスがよろしい。


 最後に評価すべきはシヲでしょう。

 人類種では不可能な関節の動き、四肢の動き。それを巧みに操作しています。勘違いしてほしくないのですけれど、自在に動ければ良いというものではありません。


 むしろ、自在であるからこそ、何でもできるからこそ「何をしてはいけないのか」の見極めが増えて難しくなりがちなのですよね。


「何でもありなら、何でもいいじゃーん」と欠片でも思わせれば即死の表現領域。


 それをシヲは独自のセンスにて、綱渡りながら「芸術」に維持しました。木工というジャンルに耽溺するがゆえ、シヲは独自路線でのセンスを研磨し続けております。

 それは私好みでこそありません。

 ですが、十分に面白く、芸術と言えるでしょう。


 ちなみにセックはダメダメです。

 私が「駄目です」と言えば「いいえ、わたくしは完璧です」なんて言い返してきました。仕方がないので一挙手一投足のどこが悪いのかを淡々と説明し続けたところ、耳を塞いで叫び始めました。


 ゴーレムにとっての完璧って人なのかもしれませんね。


 アトリもたくさんの相手とダンスを経験し、色々な表現を理解できてきたところです。とくにシヲとのダンスは「シヲが嫌い」がよく出ていて面白かったです。

 また、シヲのほうも「こいつど下手だけど、合わせてやろう」という上から目線のダンスがよく描けていました。

 歪ながらも調和した、素晴らしい演出。


 その後。

 私たちは尋ねてきたレメリア王女殿下も交えてダンスレッスンを続けました。

 ちょうどレメリア王女殿下は「リハビリ」が必要ですからね。どうやら戦闘の後遺症で片目は見えぬまま、片足も動かぬままのようですから。


 王女殿下のパートナーを務めながら、アトリが穏やかに言います。


「神が言っている。足が動かなくても、それを活かす演技ができるのもダンスの面白み。頑張ると良い」

「それは嬉しいお言葉ですわね。ありがとうございます、ネロさま。でも、その……」

「言葉は不要。ダンスで表現するべき」

「そ、そうなのですが……」


 こうして私たちは本番を迎えました。

 さあ、社交界の華となるのです、アトリ!

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