第195話 逃げるべき時、戦うべき時。
▽第百九十五話 逃げるべき時、戦うべき時。
「逃げましょうか、アトリ」
私の甘い提案に、幼女は魅了されたように硬直してしまいました。
じつのところ、私の選択肢には常に「逃走」が含まれています。逃げることがいけない、なんて世論が蔓延っていますけれど、私はまったくそうは思いません。
魔女は「お仕事」と口にしました。
つまり、好悪による説得は不可能とみてよろしいでしょう。現状、アトリは「魔女を殺す」か「魔女に殺される」かの二択を迫られています。
このような展開、どちらを選んでもアトリにはバッドエンドでしょう。
ならば。
選ばない勇気というのも要求されます。
今、無理矢理選んでも潰れてしまうだけ。
逃げることは悪いことではありません。
駄目なのは安易な逃げです。
多くの人の「逃げ」はやや甘い。
中途半端な逃げというのは、自分を苦しめるだけなのです。逃げるのならば逃げ切らねばなりませんし、逃げた先を準備しておかねばなりません。
今回の場合の逃げは単純です。
このマリエラから逃走する。
魔王の討伐は諦め、シヲなどを使って魔女と和解する。あとは魔王軍側にでもつけばよろしいでしょう。聞いた話、ミリムなどは魔王と契約したようですし、あちら側とて戦力は多いにこしたことがないでしょう。
必死に生きているNPCたちには悪いですけれど、しょせんはゲームなのですからね。このゲームがたとえば世界の命運を握っているならば、私だって一生懸命に戦いましょう。
ですがゲーム。
嫌なことをしてまで遊ぶなんてまっぴらごめんですからね。
「……魔女と戦いたく、ない、です」
アトリは罪を告白するように言いました。
項垂れた頭部は叱られる子どものよう。一応、アトリにも常識という枷は存在しています。その枷が今、自己の判断を咎めているのでしょう。
思いの外、アトリは魔女と友好関係を築いていました。
私がプレイしていない間だ、彼女は多くの時間を魔女と過ごしました。私が買い与えたゲーム機を使い、二人で協力プレイをして遊んだりもしていたようです。
私もセック、アトリ、魔女と狩りゲーを遊んだことがありますしね。すでにアトリにとって魔女は大切な――友人なのでしょう。
かつて、ヨヨとの戦いの時。
私はアトリを逃がさずに戦わせました。
あれはどう見ても戦うべき場面でしたからね。
しかし、今はその真逆――逃げるべき時。
人には戦うべき時、逃げるべき時……どちらも判断してはいけない時、様々な「時」が存在しています。
「ではアトリ。シヲを呼んで囮になってもらいましょう。良いですね? もうこの街に私もアトリも戻ってくることはありません」
「……はい。です」
ふらふらと頼りない足取りでアトリはマリエラから脱出しました。
▽
俯いたアトリは失意にくれているようでした。
殺しが得意な彼女が、殺せなかったどころか――殺す気になれなかった。
これはアイデンティティに多大なるダメージをもたらしたことでしょう。
しかし、アトリも本心では逃げたかったようです。少しだけホッとした雰囲気も感じられますね。
「……」
場所は、かつての拠点でした世界樹周辺です。すでに世界樹は【理想のアトリエ】に移転済みなので、ここには大して何もありませんでした。
シヲが組み立てた小型の小屋。
その隅っこにてアトリは体育座りで項垂れていました。セックが箒で小屋を掃除する音だけが、虚しく室内には満ちています。
ここまでアトリが「駄目」になるのは初めてのことです。
今まで大した敗北を経験してきませんでした。
アルビュート王立戦闘学院にて初老の教師は「貴族の子どもは負けてはならない」と主張していました。
一度でも折れた者は歪み、曲がり……駄目になってしまう。
今回の逃走はアトリに深い挫折を味合わせたようでした。ともすれば弱さに繋がりかねない敗北でした。
それは当然でしょう。アトリが敵を殺せなくなったなんて初めてのこと。
初心者NPCが陥りがちだという「人型の魔物や人類種を殺せない」……そういう挫折を初めて味わっています。
家族さえも惨殺できた死神幼女は……自分の意思で友達ひとり殺せないのです。
圧倒的な殺意こそがアトリの才能。
そこに傷が入った今、アトリの「怖さ」は半減してしまっていることでしょう。かといって、あそこで強引に魔女を殺害した場合、アトリは「ただ強いだけ」に成り下がったでしょう。
どちらが良いかについては……賛否両論ございましょうけど。
まあ、世界最高の天稟と呼ばれる私的には「ただ強いだけ」なんて雑魚ですけれどね。ただ「絵が上手い」だけを求めるなら写真やAIで良いわけです。
感動とは、巧拙を超越した次元に位置するものですからね。
だから、私はアトリを逃がしたことを後悔していませんよ。
「おや。まだ暴れているのですね、魔女は」
私は掲示板を軽く覗いていました。そこではマリエラで暴れ回る魔女の姿があります。第三フィールドの中でもマリエラは拠点にちょうど良いです。
プレイヤーは思いの外、多く。
実況者が「魔女の正体は第三フィールド・ボス」であると流してしまったようです。
魔女は強力な敵ボスでした。
おそらく、かつてのアトリと同格レベル。今で言う《動乱の世代》クラスの実力はあるのでしょう。
それでも、いずれは潰されてしまう領域です。
プレイヤーの執念とは恐ろしい。
決して死ぬことなく、弱者をあっという間にそこそこに強くする。本人も【顕現】を使えば強いですし、何よりも情報共有能力がずば抜けています。
何よりの難点は……魔女の戦闘スタイルが有限の物資に支えられていること、です。
「《動乱》クラスが出てくるか、効率化したプレイヤーが現れるか。持って数日といったところでしょうかね」
私が独り言とともに映像を眺めていれば、いつの間にかアトリが側に立っていました。彼女の赤い瞳は一心に私が見ている映像に向けられています。
すなわち、マリエラで戦闘を繰り広げている魔女です。
魔女は「悪」の一文字が相応しい哄笑とともに、街を蹂躙してしまっているようですね。
ぼそり、と幼女が熱の籠もった声で囁きます。
「……神様。ボクは魔女を殺す。です」
「おや急な心変わりですね?」
「魔女が楽しくなさそう……です。それにボクは魔女の友達、だから――」
ぐるぐるした目。
「――他の人が殺すなら、ボクが殺す」
「なるほど。それは道理です」
「はい! です!」
言ってることヤバ、と思われるかもしれません。
ですが、私は共感できました。
人には理性や建前というシステムが備わっています。まあ、備わっている――と期待したいが正しいかもしれません。ともかく、そういったシステムで言えないだけ、あるいは思っても無視しているだけでアトリの主張はもっともなところです。
大事なモノが他人の手で壊れてしまうくらいなら、自分で壊す。
わりとありふれた考えでした。
普通はやらないだけで。
「魔王側につくという選択肢は取らないのですか?」
「……魔王は倒す。です!」
「では、そうしましょう」
アトリの覚悟は決まったようです。
アトリには野望があります。あらゆる強敵を倒し、魔王すらも超越し、やがては私を守れるくらいに強くなる……という野望だそうですよ。
ゆえに魔王とは敵対関係にありました。
もしかすればNPCたちの根本的な情報に「打倒魔王」が学習されているのかもしれません。魔王側の人類種のNPCって魔教とゲヘナくらいで思ったよりも少ないですしね。
アトリがシヲを呼び出します。
馬にしたミミックに飛び乗ってから、アトリはゆっくりと息を吐き出します。肺の中身を空っぽにして。
「終わりにする……です」
どこか悲しそうな。
けれども殺意に満ちた、愛らしい声が小屋を揺らしました。
折れぬために逃げました。
それにより生み出した僅かな時間により、アトリの刃はより鋭く研ぎ澄まされたようでした。逃げるのはいつだって……戦うため。
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