回る光

四枚葉っぱ

人魚


「人魚の話って好きじゃないんだ」

 思わずえぇ、と返事する。それが友人の開口一番、二人で観に行ったルサルカの感想だった。

 懐かしさを思い、物語の感動を言い合うために入った夕方の喫茶店。並べられたコーヒーとケーキ。

私は慣れない液体の熱さにふぅふぅ息を吐いて、舌先にちょんと触れさせては、「あつっ」とすぐカップを戻し、それを繰り返していた。そんな時に友人が言い放ったのが冒頭である。どうしてか聞くと、几帳面に端から薄切りにしたチーズケーキを食べる友人が眉を上げる。

「だって悲劇ばっかりだろ。一度だけでいいから誰か、人魚を幸せには出来ないものかな」

 ひたむきな思いだ。友人は飲み慣れたコーヒーを躊躇わず大口で飲み進める。私はといえばちょっとの気まずさに落ち着かず、ケーキを掬うでもないフォークをくるくる回して、でもさ、と言う。

「人間は食糧なんだよ? それと恋愛するのも凄いと思う。貴方だって、自分を食べるような相手を彼女に出来る?」

「勿論出来るよ。どちらかといえば悲願だ」

 ギョッとする。友人は夢見がちでロマンチストだからそんなこと言えるのだ。

 人魚は綺麗な見た目で誘き寄せ、頭から齧り骨を海底に捨てるのだ。化け物である。絵本に描かれるように小魚と戯れ繊細で、嫋やかな種類はもういない。

「じいちゃんから聞いたんだ、昔」

 灯台守と人魚の話。恋に落ちた人間の男と人魚が、灯台から眺める夕日に永遠の愛を誓う。しかし海に帰らなければならない人魚を男は見送るのだ。再会を必ずと、夢見て。

「それも悲劇じゃん。あ、でも死んでいないからセーフ?」

「元々の話はそれで終わりだけど、じいちゃんは俺のために話を付け加えたんだよ。灯台守はいつか人魚を追いかけて、自ら舟を漕ぐんだ」

 決して物語中で二人が出会えたとは明言されない。だが、ずっと待ち続けるよりも光ある終わりだった。

「それにじいちゃんは人魚を信じて確かに人生の中で見つけた。ま、ヒレは生えてないし、歌も下手だけど」

 それは人魚じゃないでしょう。私は相槌と一緒にわはは、と笑い声を上げる。人魚とは友人の祖母だ。海辺の家に住んでいて、真っ直ぐな長い髪が美しい女性だった。つまるところ祖父は"人魚のような"女性と恋をした。

「俺も見つけたいと思ってる」

「綺麗な彼女を?」

「……違う。人魚だよ。誰も幸せに出来ないなら、俺がしてあげたいんだ」

 熱烈な恋煩い。だが悲しいかな、相手は友人の頭で出来上がった架空の生き物である。私は最後の一切れ、美味しいショートケーキだったものを口に放り込んで頷いた。

「出来るといいねぇ」


 店から二人が出ると、すっかり暗くなった街が広がる。飾られた街路樹の光が眩しくて瞬きをした。あ、とその時に思い出す。

「そういえば、近くに灯台があるよね」

 駅に向けて歩き出す最中に話しかけた。友人はちょっと高い背を折り耳を近づける。それから、「うん」と、不思議そうに言っていた。

「私も昔は信じていたよ。人魚と人間の恋。お母さんが灯台のことを、人間が恋した人魚を探す光だって言ってたんだよね」

 だからいつかあの光が消えるのを願ってたのだ。どうか愛しい相手が見つかりますように。冷たい海のどこかで再会を果たしていますように。

「だけどさすがにこの歳にもなれば、分かるよ。あれはもっと事務的な建物だってさぁ」

 すっかり冷めた現実主義者といった印象を友人には持たれているだろうから、「意外だった?」と聞いてみる。履き慣れない新品の靴がカタカタ鳴った。

「今日の劇に誘ったくらいだから、君も人魚が好きなんだとは思ってたよ。だから別に」

 なるほど、鋭い考察。上着のポケットに入れていた手を顎に添え、ふむふむ頷く。


「じゃあ、私が人魚だって言ったらさすがに意外?」

 突拍子もない話をしているなぁ、と夜道で視界が揺らぐ中思う。友人を困らせたいわけではないが、おちょくりたい気持ちがあった。

「人魚ならいいと思ってた」

 だが、頭の上から聞こえた声はそんな内容である。代わりに面食らったのは私だった。慌てて仰ぎ見る友人の顔は真っ直ぐ、街路樹が沿う道の先に向かう。ぎこちなくザラザラした首元を撫でた。

「ま、そんな冗談言うとは思っていなかったから。そこは意外だったかも」

 焦る気持ちで口を開く。

「冗談じゃないんだ」


 立ち止まった私より一歩前に進んだ友人は不思議そうに首を傾げるのだった。道には二人しかいない。寒い夜、わざわざ店も街灯もろくにない道の真ん中で立ち話をするような人間は他にいなかった。

「私は人魚なんだ。絶滅しないために陸地にまで上がって人間を攫いに来たんだよ。攫って、食べるから」

 それに、今日の話さえなければ貴方は海の中で四肢の全て、内臓の隅まで食い尽くされて死ぬはずだったんだよ。

 信じてもらえていないな、となんとなく思う。疑心の瞳が私を掠めるので罪悪感から顔を逸らした。

「だけど失敗だ。食糧に感情移入しちゃったら、駄目だから。貴方は諦める。違う人にしようと思う。会うのは今日を最後にしよう」

 ならば駅に向かう必要はない。友人を置いて暗い道に引き返した私の手を、後ろ手に強く掴まれる。

「俺を食べて、幸せになれるならいいよ」

 真っ直ぐな視線に嘘はない。友人はそんなことを、真面目に言い放っているのだ。自分が恋焦がれる人魚。人魚を悲劇から救うためなら死んでも構わない。一途を超えて狂気さえ伺える。

「嘘だよ」

 私はぱっと笑って足を止める。

「人魚のわけないじゃん。からかったつもりなのにさぁ。人魚のこと好きすぎ!」

 ちょっとだけ顔を羞恥に染めた友人は首のマフラーを落ち着きなく触ってさっさと歩き出す。そして、横を着いて来ない私へ「寒いし、早く行こう」と急かすのだった。

 頷き、慌てて慣れない足を動かした。


 本当は。本当は、大人になっても私は灯台の光を信じていたのである。だからあの日、光に会いに行ったのだ。人魚を待ち毎夜光を灯す誰かに会うために。

 そこには人がいた。灯台守などではなくて、潮風浴びながらアイスを食べる平凡な人である。恐る恐る近寄ってみると、相手は私を見て微笑み「こんにちは」と言ったのだ。それが友人との出会いであった。

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