七なき花

 あれから二週間、青年と会えぬまま時が過ぎた。

 確か、最後、病院から出る間際に聞いた話では、そろそろピアニストの青年は退院のはずだが……腕は大丈夫だろうか。

 医者は複雑骨折と言っていた。確か複雑骨折は通常の骨折よりも治りにくいのだと聞いた覚えがある。それを承知で、黒服の奴らは青年の商売道具とも言える腕を狙ったのだろう。

 回復を祈るくらいしか、できることがない。


 そんなある日、休日で街をぶらついていると、あっ、と女性の声が後ろからした。見つけた、とも聞こえた気がする。何事だろうと振り向くと、愛らしい私服姿の歌い手の女性が私の方に駆け寄ってきた。白地に青い花が開いたワンピース。「Zion」での大人びた衣装もいいが、こういった可愛らしいのも似合うものだな、と少々ずれた思考をしてから、疑問点に気づく。

 見つけたとは私のことか? 私を探していたのだろうか?

「お久しぶりです」

「ええ、お久しぶりです」

 「Zion」に行くのを避けていたから尚更久しぶりのように思えた。歌い手は随分溌剌として元気そうで何よりだ。……青年の、病院での一件は知らないのだろうか。

 きっと青年が大怪我を負ったのは知っているだろうから心配しているにはちがいないが、私の知ることを伝えるべきか否か、と考えていると、意外にも彼女の方から話題を持ちかけてきた。何故かはわからないが、やたら目が輝いている気がする。

 そんな彼女が放った一言は、衝撃的なものだった。


「今日は是非、あの店に来てほしいんです! 彼と連絡がついて、今日来るって!」

 喜色満面で、少々興奮気味に告げられた一言に、私は目を丸くすると同時、一も二もなくはいと即答していた。

 ……私自身、行きたかったのかもしれない。

 そう、その事象がどれだけおかしいことか、碌に考えもせず、

 私は、その日、「Zion」に行くことにしてしまったのだ。──それだけで浮かれて、何も考えなどしなかった。


 歌い手に早く早く、とせっつかれながら「Zion」に向かう。一月くらい行くのを避けていたからか、読みづらい寂れた看板がどこか懐かしくさえ思えた。

 扉を開ければからんと鈴の音。内装は変わっていない。まあ一月で変わるものではないか、とは思ったが、やはり懐かしさというのを覚える。それくらい、私はこの場所を好いていたのだな、と改めて実感した。

 まだ日は高い。一体いつから開けているのだろうか、と疑問に思っていると、「新顔くん」と久方ぶりに聞く声が、入り口近くの隅の方からした。そちらを向けば、予想通り、立派な顎髭を蓄えた初老の男性。相も変わらずニコニコと笑顔を絶やさない人だ、顎髭老は。

 よくいつもその笑顔を保っているものだな、と感心する半面、もう半面では、この笑顔にも少なからず癒されていたのだなぁ、ということを実感していた。

 珍しく、眼鏡老の姿がない。聞くと、彼は今日職場に行ったのだとか。隠居していい年なのに、仕事が好きだねぇ、と顎髭老が髭を弄りながら呟く。なんだかその仕種も、見ていて安堵した。

「まぁ、でも今日でようやっと引き継ぎが終わるらしいが、最終日というのは得てして忙しいものだ。間に合うといいが」

「間に合う、と言いますと?」

「今日の演奏に決まっているじゃあないか!」

 興奮気味の様子で顎髭老が続ける。

「何せ今日はやっとピアニストくんが戻ってくるのだよ? あいつは殊更ピアニストくんを気にいっているようだったからねぇ。彼を見ただけで感極まって泣くんじゃないかい」

 彼の泣き顔は貴重だぞぉ、とまだ酒も入っていないはずなのに、顎髭老は楽しげにけたけたと笑う。彼もピアニストが戻ってくるのが嬉しいにちがいない。

「にしてもまあ、君も今日来てくれてよかったよ。しばらく顔を見ないものだから、心配したさ」

「それは、ありがとうございます」

「ふふ、今日は上手くすれば全員が揃う最高の日だ。酒も最高に美味いことだろう!」

 高らかに天に向かって告げる顎髭老。……もう飲むことしか考えていないらしい。

 ところが顎髭老の晴れ晴れとした顔とは対照的に、空の顔色は優れない。灰色の雲が、太陽を隠してしまう。はて、今日の予報は雨だったか、などと考えていると、案の定、雨がぽつりぽつりと降り注ぎ始めた。

「降ってきましたわね」

 まだ私服姿のままの歌い手が呟く。

 少々無粋かとも思ったが、私は訊ねた。

「今日はどんな衣装で?」

 すると彼女はくすりと笑い、肩を竦めた。

「あらあら、せっかちですこと」

「気がこちらに向いていないとしても、女性の勝負服が気になるのは、性ってもんですよ」

「ううむ、同感だねぇ」

 顎髭老まで同意を示したため、彼女は仕方なくといった様子で少々お待ちくださいね、と店の奥に消えた。

 女性を待つ間、私は顎髭老と他愛のない言葉を交わす。

「そういえば一月近く見なかったけど、一体何をしていたんだい?」

「あー、いえ」

 歌い手の女性に口止めされていることを簡単に白状するわけにもいかず、私は咄嗟に「仕事が忙しくて」と苦笑いした。

 そんな私に、顎髭老は呵々と笑い、「全く、あいつといい、君といい、仕事が好きだねぇ」なんて言った。

 こんな気さくな顎髭老の作り出す空気感に安らいでいると、ふわりとなんとなく、空気が揺らぐ気配がした。

「ああ、失礼致します。お店を開く前にさっと換気をしましょうか、と」

 そう言って店の奥の小さな窓をいくつか開けたのは、歌い手だった。

 一瞬にして目を奪われた。おそらく、顎髭老も同じだっただろう。

 歌い手の衣装は先程の愛らしいワンピースとは打って変わって、やはり、大人びた、綺麗という印象を受けるものだった。

 今日も単色のシンプルなロングドレスなのだが、目に優しいクリーム色をしている。薄暗い中に映えるその色を落ち着いた印象に抑えているのが、薄い緑色のカーディガン。中が透けて見えるくらい薄手のカーディガンが、彼女の人目を惹き付ける魅力を見え隠れさせていて、どこか蠱惑的にも感じられる。

「おお……」

「ああ、雨がひどいですわね。やはり閉めましょう」

 そう言って短い換気が終わったが、空気は随分爽やかなものに変わった。


 時計の短針が六を通りすぎる頃になると、「Zion」も俄に賑わい始めた。今日は私の知るいつもより人が多い気がする。ちらほらと聞こえる会話に耳を傾ければ、ピアニストの青年が帰ってくるという話が広まっているらしく、常連間で情報のやりとりをし、スケジュールを合わせたり、と色々やりくりしていたらしい。やはり、愛されているのだなぁ、と我が事のように嬉しくなる。

 しかし、眼鏡老が未だに姿を現さないことが不安だった。顎髭老もそのことを気にしているようで、入り口の鈴が鳴るたびにそちらに目を向けている。

「……直に七時だ。可哀想に、いつも次期館長は難儀なやつとぼやいていたものだが、こんな日に限ってとはねぇ」

 全く同感だった。二人して、同時にほうと溜め息を吐き、タイミングが合ったことに、二人してふふ、と笑いかけた、そのとき。


 からん。


 再び店の扉が開く。期せずして、私は顎髭老と共にそちらを見やり──驚愕を隠せず、手にしていたお冷やのグラスをかたん、と落とした。顎髭老も、珍しくその顔から笑みが消えていた。

 入ってきたのは、例の黒服。病院での一件や、歌い手に口止めされていた件はまだ顎髭老には語っていないが、顎髭老もあまりあの黒服二人には好印象を抱いてはいないようで、見たことがないほどに鋭い目で睨んでいる。

 黒服二人はそんな視線は意に介さず、けれど、目をこちらに──私に向け、気味の悪い笑みを湛えて、こちらに向かってきた。

 店内がいい雰囲気であるため、それを打ち壊さないよう、私は色々言葉を飲み込み、とりあえず黒服を真っ直ぐ見据えていた。まあ、有事の際の切り札がないわけではないから、と私は密かに携帯端末に触れる。歌い手脅迫が録音された端末機械に。

 しかし、黒服は両手を挙げ、肩を竦めるという剽軽な仕種をした。意味がわからず、呆気に取られていると、黒服の片方が口を開く。

「そう警戒しないでください。我々は今日は何もしない」

 そう簡単に信じられるものか、と不信感も露なまま、睨み付ける。しかし、目に見える範囲には武器を所持しているようでもない。

「ご安心ください。我々何もしません」

 黒服のもう一方が、そう繰り返した。──我々『は』?

 引っ掛かる言い方だな、と私が顔をしかめると、黒服は続ける。

「歌い手を獲得するのは諦めました。

 今宵の我々はただ、です」

 見届ける?

 私はある可能性に思い至り、ぞっと鳥肌を立たせ、まさか、と叫びそうになる。

 ──が。


「皆さま」


 女性の涼やかな声が、バーに響く。それを合図に、場は水を打ったように静まり返った。


「今宵はいつにも増し、たくさんの方に足を運んでいただいたようで、一言では、感謝を語り尽くせません。

 けれど私はその分、歌で、皆さまのお心にお応えしたいと思います。

 私には、歌うことしかできませんし、何を隠そう、本日は……」

 少し、溜めを置いて、歌い手は店の奥にアイコンタクトを送る。すると、奥からおずおずと、ピアニストの青年が現れた。見たところ、包帯もギプスもしていない。全快した、ということだろうか。私は軽く瞠目した。

 他の客は拍手喝采の嵐を生み出していた。皆、彼が帰ってくるのを、どれだけ心待ちにしていたことだろう。ある程度事情を知る自分より、焦がれていたのかもしれない。

 青年は、マイクを歌い手から渡され、少々戸惑ったように挙動不審になりながらも、ええと、と口を開いた。


「長らく、お待たせしてしまったようで、申し訳ございません。そして、こんな歯牙ないピアノ弾きを待っていてくださり、ありがとうございます。彼女も言っていた通り、皆さまへの感謝はいくら語っても足りないことでしょう」

 少し、緊張で強張った声色だったが、「であるならば」と続けた青年の面差しは、きりりと前を見据えていた。

「僕もピアノにしか能のない人間……それで少しでも皆さまに報いることができたなら、本望です。

 そして今日、誰よりも僕を待っていてくれたであろう人と、共に立てることを誇りに思います……」

 それだけ言うと、ピアニストは歌い手にマイクを返し、ピアノの前に座った。ごく自然な動作、光景。ああ、彼にはやはりあの場所が似合う、と先の懸念など忘れ、目を細める。


 いつものように二人がアイコンタクトを交わし、滑らかなピアノの前奏が始まる。黒服が何やらぶつくさ言っているのだが、そんな雑音など、一切放り出してしまうほど、引き込んでくる音の羅列が心地よい。

 ああ、本当にこの場に眼鏡老がいないのが悔やまれる。彼が一番、聴きたいだろうに……と思考を巡らせていると、柔らかい女性のソプラノがピアノの上にそっと重ねるように紡がれる。

 私は二人の演奏を、数えるほどしか聴いてはいないが、今までで最高の演奏だったように思う。


「貴方を忘れない

 その誓いがある限り

 私は歌い続く

 永久に声のある限り」


 胸を貫く切なさと、包み込む慈しみを伴った歌声。

 間奏を駆け巡り、歌声の余韻を生かし、聴き手の心を掻き乱しながらも、曲をまとめ上げていく、見事なピアノソロ。

 初めて来たあの日より、情感が感じられるのは、私が二人を知ったからか、それとも二人の心がより通じ合ったか……後者であってほしい。


 そして、曲の最終局面、最高潮の盛り上がりをピアノソロが仕立て、そこでソロは、歌い手に譲られる。

 歌い手は物語を紡ぐように、語り継ぐように丁寧に、しっとりと、ピアノから譲られたソロを歌で繋ぐ。

 今日は二人なりに趣向を凝らしたのだろう。最大の盛り上がりを見せる場面でありながら、静かに歌声だけが場を満たす。それでいて、盛り上がりが立ち消えることはない。


「秋に寄り添う花の一片

 風とともに散り逝き、貴方へ届きたい

 ──叶わぬ夢を抱いて、花は枯れ朽ちゆく……」


 歌い手の抑揚とビブラートが、場に切なさをもたらす。この後、いつもなら、ピアノソロの後奏が入るはず、なのだが。






 パァンッ……


 響いたのは、ピアノの音色ではなく、誰もが思いも寄らなかったであろう、銃声。

 そう、銃声。

 ……沈黙に包まれ、誰もが唖然とする中で、私だけが事態を全て悟っていた。悟ってしまった。


 とさりと女性の倒れ伏す軽い音。かたかたと拳銃を構え、震える青年。引き金が引かれて間もない銃口からは、硝煙が立ち上っている。

 私は確認したくもなかったのだが、視界の片隅で、黒服たちがにやりと口角を吊り上げるのを見た。じっとりと脳を焼くような殺意を覚えた。

 そこで、ばたんと入り口の扉が開かれる。途中から来て、演奏の妨げにならないようにか外で聴いていたらしい眼鏡老が入ってきて──場の惨状に立ち尽くす。


 倒れる歌い手は胸を正確に貫かれ、血溜まりを広げるだけでもはや虫の息。撃ったピアニストは数瞬の茫然自失の後、おもむろに銃を自らのこめかみに突きつける。

 見兼ねた眼鏡老が慌てて駆け寄るが、もう青年は引き金を引いていて──しかし、二度目の銃声が響くことはなかった。


 青年が黒服を茫然と見、声もなく、話が違うじゃないか、と言う。黒服は何も答えない。

 代わりなのかはわからないが、倒れた歌い手から、微かに声が聞こえた。ピアニストは目を瞠り、咄嗟に彼女を抱き起こす。

 途切れ途切れの掠れた声。それでも彼女は、歌っていた。この場の誰もが聞いたことのない、歌の続きを。




「貴方の花向はなむけになれると云うなら

 この命すらも花とし、手向けとしよ……う、か……」


 彼を抱きしめ、囁くように紡がれたその一節は、きっと他の誰でもない、想い人である彼に──ピアニストの青年に向けられたものだろう、とわかった。

 青年も察したのだろう、泣きそうに顔をくしゃりと歪め、自ら手をかけた女性を強く抱きしめた。

 想いが……遅すぎるが、想いが伝わったことに安堵してか、役目を終えたように、女性は安らかな表情で、愛しき者の腕に抱かれ、永とこしえの眠りに身を委ねた。

 眼鏡老がやるせなさそうにがん、と壁を叩く。

「せっかく、その歌い手と、君とを招いたコンサートの手筈を整えてきたというのにっ……」

 ああ、それで遅かったのか、と思う傍ら、私の中には虚しさが去来していた。

 青年はびくりと肩を震わせ、ごめんなさい、と小さくこぼす。凍りついた場の雰囲気を置き去りに微かな嗚咽が、広がり始めた。


 後を追うつもりだったのだろうに、それが叶わなかった青年の手から、からりと、もう弾が残っていないらしい拳銃が落ちる。やけに乾いた音を立てた。ひどく窓を打ち付ける、外の雨とは対照的に。

 それに対し、誰一人、身動ぎもしない。元凶である黒服は、いつの間にか消えている。だが、そのことに怒りを滲ませられるほどの心の隙を、今の私は持ち合わせていなかった。

 私はただただ、辺りと同じく茫然としながら、こう思っていたのだ。




 役目を終え、淋しくぽつりと取り落とされた拳銃を、











 誰か、拾ってやってくれ、と。

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はなむけ 九JACK @9JACKwords

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