六に帰す

 私と歌い手との間で、ちょっとした決め事をした。

 というのも、彼女の要望で、時が来るまで私が録った録音データを誰にも聞かせず、秘めていてほしいということだった。

 なんだかんだと勘の鋭い顎髭老や寡黙ながらも二人──主にピアニストを気にかける眼鏡老。この二人に知られてはきっと、黙っていてはもらえないだろう。事を穏便に済ませるため、という彼女の配慮だった。

 それから、私は店の前で歌を聴くも、中には入らず、という日を過ごした。事前に二人には、怪しい輩の目星の話はしてしまっていたし、二人がかりで聞き出そうと迫られたら、黙っていられる自信がないのだ。なんとも情けないことに。

 故に数日……二日ほど、外で歌だけの寂しいバーを眺めて過ぎる、というのを過ごした。


 ところが縁は異なものというが、その間にも私には悩ましい事案が続いた。

 まあ、悩ましいといっても、私が勝手に見て悩んでいるだけなのだが。

 何があったかというと、まず、例によって女性を狙う輩が諦め悪くつきまとっていること。そのたびに女性はきっぱり断っているのだが、いい加減鬱陶しいようで、ストレスも貯まっているようだ。珍しく化粧をしていると思えば、それは目の下の隈を隠すために塗りたくったファンデーションだった。

 それと私の心臓を鷲掴みにするような出来事が起こったのは、なんと病院でである。

 病院、というと、ピアニストの青年がある程度の回復のために数日入院することになったというところだ。私は「Zion」に行かない分、そちらの見舞いに行ってみよう、としたところ、病室を覗いて、さっと身を隠すはめになった。はめになった、とは言うが、まあ、別に隠れる必要はない。しかし反射というかなんというか、どこからともなく発せられる危険信号がそんな行動を取らせた。

 なんと病室には、見覚えのある黒服二人がいたのである。私は思わず緊張に身を硬直させ、話しているようなので、聞き耳だけ立てた。残念ながら、端末類は病院内なので全て電源を切っている。

 歌い手との一件のときとは違い、この会話は殊の外静かだった。場所が病院であるし、青年が医師から絶対安静を命じられているからかもしれない。

 ただし、会話の内容は穏やかではなかった。

 聞き取った範囲だと、こんなやりとりをしていた。


「どちらさまですか?」

「我々は、ある人からの依頼で動いている者だ。あなたにはあの歌い手の麗人のことで話があってきた」

 思い当たるのは一人しかいなかったのだろう、息を飲むのがはっきり聞こえた。

「……話、とは?」

 慎重に言葉を選んでいるのが空気だけで伝わってくる。それほどに場は張りつめていて、青年の声は多分の緊張を含んでいた。

「ご存知かもしれませんが、我々は彼女に誘いを何度も断られています。そこで考えたのですが……あなたも一緒においでになりませんか?」

「……はい?」

 青年がわけがわからないといった風に聞き返す。

「あなたさえ一緒なら、彼女も首を縦に振るでしょう。正直、我々は彼女さえいればいいのですが」

 私は陰にいながら、ぎり、と拳を結んだ。これではまるで、ピアニストがついでのような扱いではないか。

 その思いは同じなのか、

「連れて行かれても、結局僕はおまけに過ぎないんですよね? ……彼女と同じ場所に立てるという保証は、ありませんよね」

 青年の応えた台詞には、哀しみが滲んでいた。

「あなた方のやり口は、なんとなく想像がつきます。何故なら僕が今ここにいるから。……あの人が、見舞いに来たんです」

 何故あの人が僕がここにいることを知っているんでしょうね、と青年は相手に揺さぶりをかけるように問いかけた。青年の言う『あの人』とはおそらく、歌い手のことだろう。

 それを察してか、殺気に似た緊張感が漂う。肌がちりちりと焼かれるような感覚だ。不快感もあるが、何より息苦しい。

 それでも青年はあの黒服たちと睨み合っているのだろうか。空気が動く様子はない。黒服たちが動く様子も。

 そんな緊迫感に包まれた時間が、数分にも感じられるほど続いた。しかし、聞くともなしに聞いていた時計の針の音はまだ三十も打っていない。それくらいの時が過ぎて、沈黙を破ったのは、

 かちゃり、という奇妙な音。

 これ以上なく、空気の濃度が薄くなったような、もう呼吸音さえ立てることが許されないのではないだろうか、というほどの緊迫感。その中で青年がはっきりと息を飲むのが聞こえた。

 やがて、黒服が声を発する。

「あなたにこれを預けておきましょう」

「なっ……」


 ……一体、何が渡されたのだろう。覗きたいが、この緊迫感の中、姿を見られるのは怖かった。

 青年が緊張を伴った息を吐き出し、同時に口を開く。

「あなた方はつくづく堅気の方ではないと思っていましたが、こんなものを僕に渡してどうするというんです?」

「そうですねぇ……あなたも首を縦に振ってくださらないのなら、もう我々は虚言でもあなたを引き込んだと彼女に告げようか、と思いまして」

「……は?」

 私も意味を理解しかね、眉をひそめ、続く言葉を待つ。

「幸いなことに、あなたの声のサンプリングは一連の会話で充分に録れましたから、虚偽の会話の録音テープ程度なら、難なく作れることでしょう。それを携えて彼女を説得すれば、彼女も乗ってくれることでしょうね」

「っ!?」

 つまりは、青年の拒絶まで計算づくだったということか。なんて狡賢い奴らだ。

 しかし、それと青年に渡した何かと、一体何の関係があるのか。

「邪推ですが、あなたたち二人の背景には色恋の形が見える。まあ、推測なので、固執理由は別かもしれませんが、ここまでの固執だ。どんな形にせよ──引き裂かれるのは、望まないでしょう?」

 ……見てはいないが、黒服の男の口元が、弓なりに笑みを描くのがわかった気がした。嫌味たらしく気味悪く。

「使い方はあなたの自由ですよ。自害するもよし、我々に拐われぬうちに彼女を撃ち殺すもよし……」

 撃ち殺す……!? まさか、拳銃か!?

「ロックはここを引くだけで簡単に外れますから、どうぞご有用にお使いください」

「いらないっ!!」

 青年はぴしゃりと怒鳴った。手を払いのけた音がする。

 黒服はおどけた調子で、おやおや痛いですねぇ、などと宣う。

 次に聞こえたのは、


「おいたをする手は、いりませんねぇ」


 ぼかすきゃずきゃっ!!


「ぐ、ああああああっ?!」


 ものすごい殴打音と、青年の呻き。さすがに放置しておられず、身を乗り出した。無謀ではあるが、何をしている、と丸腰のまま飛び出て黒服を睨み付ける。

 黒服二人は、片方が左手を、片方が右手を二人がかりで潰しにかかっていた。私が来たことを察してか既に拳銃は隠されたらしく見当たらない。

 ピアニストはただでさえ怪我人でまともに抵抗ができず、されるがままだ。私はとにかく止めなくては、と一人を引き剥がしにかかるが、一般人では簡単に弾き飛ばされてしまう。

 ごきごきと骨の折られる音がする。その耳障りな音に顔をしかめながら、時折殴打に巻き込まれながら、私はせめてもの抵抗として、ナースコールを目一杯に押し込んだ。

 こちらナースステーション、という声が流れてきて、ようやく男たちがぎくりと動きを止める。私は無我夢中で現状を喋った。どう伝えたかははっきりと覚えていないが、すぐに緊急性が伝わったらしく、看護師が切迫した声で、すぐ向かいます、と応じたところで男たちはさっと身を翻し、逃亡を謀る。残念ながら、追いかける体力は、私にはなかった。

 男たちが逃げ去ってから、大丈夫ですか? と一応までに声をかけてみたが、もう持ち上げられすらしないのか、ベッドにだらんと置いた手を青年は呆然と眺めるばかりで答えなかった。

 ほどなくして看護師と医者がやってきて、赤く腫れ始めた青年の手を取る。触れられた瞬間、びくりと震え、痛みの走る表情をする青年。

 両手を見、医者は言った。

「これは明らかに複雑骨折でしょうね。一応、レントゲンを撮って確かめましょう。不届き者がいたようですが……かなり手酷くやられたようですね」

 医者の並べる言葉の羅列と、深刻に沈む声だけで、絶望を与えるには充分だった。

「よくない輩が出入りするのがわかりましたので、申し訳ありませんが、しばらく面会謝絶という形を取らせていただきます。わざわざご足労いただいたところですが、お引き取りください」

 医者にきっぱりそう言われ、私は従うしかなかった。

 若干、思い詰めた表情の青年が気にかかったが、これ以上の詮索は無理だろう。胸に若干もやもやした感情がわだかまるが、それを振り払うように、私は足早に立ち去った。





 このとき、無理にでも青年の話を聞いていれば、

 拳銃の在処を見つけ、回収しておけば、







 この後の結末はなかったにちがいない。





 そう、後悔している。

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