五までも

 歌が終わり、肚を括って話し始めようか、としたところで、「皆さま」と呼び掛ける彼女の声がす、と鼓膜に染み入った。

 彼女は告げる。


「皆さま、本日はどうも、お聞き苦しいかもしれない歌を最後までお聞きくださり、ありがとうございました。

 ピアノの彼は、訳あってしばらくこちらに来られません。故にしばしは私の独唱がこの店に響くことでしょう。

 とてもとても、聴いていられたものではない、音楽かもしれません。けれど、私は歌うことをやめられません。

 ……そして本日、歌って改めて実感したことですが、やはり彼のピアノなしでは、私の歌は息をしない。それでも──私は彼が帰ってくるのを待ち、一人でも歌い続けます。

 どうかそんな私の身勝手を、お許しください」

 彼女は言い終えると、深々と礼を取った。さらりと肩から落ちていく髪、ドレスの藍色を透かし、はらりと揺れる薄いカーディガン。彼女の一挙手一投足が全て哀しみに彩られており、誰もが目を奪われ、息を飲み──やがて、ぱちぱちと拍手の音がする。最初は単一だったそれが、だんだんと複数の音が重なっていき、やがて喝采となった。

 彼女の覚悟と誠意が、存分に伝わったのだ。

「少しの身勝手くらい、赦すさ。君は毎日、誠心誠意、我々のために歌ってくれているんだ。ちょっとくらい、我が儘に歌ったって、咎めはしないよ」

 顎髭老がそんなことを言い、歌い手に手を差し出す。恐る恐る取られた手を、顎髭老はしっかり握り、微笑む。

「ピアニストくんの不在は残念きわまりないが、君が待つと云うのなら、我々はいくらでも待つ。何せ、ここにいる連中は『二人の』演奏に惚れているのだからね」

 女性は目を見開き、驚いた後、心底嬉しそうに笑った。私が目にした中で、一番の笑顔だ。




 ピアニストくん、君はやはり、一番想われているよ。

 早く目覚めて、戻っておいで。


 私は傍らで、そんなことを祈った。


 次の日、私は有給休暇を使うことにした。

 どうにも気にかかることがあったのだ。目の前で起こったあの事故や、歌い手の女性の行動など。

 私が推理だの何だのを展開したところで何かが変わるわけでもないが、言ってしまえば気分の問題である。

 まず、昨日起こった一連のことについて振り返るとしよう。

 顎髭老に言われ、演奏の後、あの事件について話すことになった。できれば、現場を見たと思われる歌い手にも話を聞いてほしかったし、訊きたいこともあったのだが、歌い手はあれから早々と帰ってしまった。

 ということで私が話したのは顎髭老と眼鏡老の二人に対してのみである。

 話す、といっても、あの事故は「車が窓際席に突っ込んできて、不幸にもその席に座っていた青年が巻き込まれた」という短文で説明ができてしまうのだが。

 奇妙な点を言うべきか悩んだ挙げ句、私は話した。

「奇妙なのは、あの車がどうも、狙いを澄ましていたように見えたことが一つ」

 そう、からくも難を逃れてからしばし私は呆然と辺りを眺めていたのだが、思い返すと、我々のいた席にのみ車が乗り上げ、左右の席は窓ガラスが割れこそしたが、被害は少なかった。それどころか、客が座っていなかった。

 偶然にしてはできすぎていると思うのは、私の考えすぎだろうか。

「……確かに、妙といえば妙だな」

「そうだねぇ。して、それが一つということはまだあるのだろう?」

 顎髭老が私が言葉に含ませたものを鋭く読み取り、続きを促す。

「もう一つは……現場近くに彼女がいたことです」

 今は店にいないが。

「新顔くん、彼女というと……一人しか思いつかないのだが、まさか」

「そのまさかですよ」

 私は事件直後に歌い手のあの女性を見かけたことを告げた。思えば店に入る前に聞いた女性の悲鳴も彼女のものだったのかもしれない。

「車が無人だったというのも気がかりだ」

 眼鏡老が口にした懸念はごもっともである。

 通常自動車というのは一人は運転席に乗って運転しているものである。狙いを澄ましていたのなら、尚更。

 まあ、直進してきたのだから、アクセルに当て木でもすればいいだけか……

 あの車にそんな仕掛けがあったかは知れないが何にせよ、悪意ある何者かの犯行であることが窺える。

 しかも、歌い手の彼女が現場を目撃している。もし、彼女に「目撃させる」のが目的だとしたら? ……恐ろしい話である。

「うーん、すると僕は下手人に心当たりがないわけでもないなぁ」

「本当ですか!?」

 顎髭老の一言に、思わず食い気味に訊ねる。そんな私に顎髭老は軽く笑い、落ち着きたまえ、と宥めてきた。

「あくまで可能性の話だ。……歌い手の彼女を獲得しようと動いているよくない輩だよ」

 なるほどそれなら辻褄が合うかもしれない。

 十四回振られても歌い手につきまとう執拗な輩、拒否し続ける彼女に、見せしめとしてピアニストを葬ろうとすることは、何より精神的に効くだろう。

 どんな理由があるかは知らないが、もうあちらになりふりをかまう余裕はないらしい。……そうまでして歌い手の彼女を獲得したいのか。

 まあ、気持ちはわからなくもない。あの歌声は唯一無二のものだ。他の店でも喉から手が出るほどほしいだろうし、独り占めできるのならしたいに決まっている。

 だがやり口がいけ好かない。つまりこれは、

「脅迫、だな」

 眼鏡老の呟きが重く落ちた。


 私の足はなんとなしに顎髭老に教えられた灰色の建物の脇の裏路地へと向いていた。本当になんとなくだが……歌い手の彼女に会える気がしたからだ。

 まあ顎髭老の情報通りなら、彼女はここにいてもおかしくないのだが、そこは密会によく使われるという。よくない輩も出入りしているとのことだし、そういうのに出会したらと思うとなかなかに肝が冷える。必ず歌い手がいるとは限らないのだし。

 しかし今日の私は確信を持ってそこに足を向けていた。勘と言ってしまえばそれまでだが、有給を消費してまで向かう価値があるように思えてならなかった。

 武器などの物騒なことに対する備えはしなかったが、念のため役に立つであろう携帯端末の録音機能をいつでも使えるよう整えてある。まあ、相手が歌い手の彼女だけだった場合、使うつもりは毛頭ないが。

 さて、様々な心積もりをしている間に目的の場所に着いた。着くと、なるほど、顎髭老から聞いた通り、密会にいい場所と、盗み聞きにいいような枝道がある。私は枝道の方に入った。つけられたということはないだろうし、あとは密会場所に現れる人物を待つのみだ。いやしかし、携えた録音用の携帯端末を見、少々苦々しい思いが立ち込める。本当に探偵じみたことをしている、と思わず自嘲の念で端末を見下ろす。

 顎髭老の日課の盗み聞きのときは若干引き気味だった私が、同じことをしようとは。まだ会って数日の両片想いの男女のために。お節介甚だしいだろう。

 しかし、不干渉ではいられないのだ。ただの好奇心がもたらすものかもしれないが。おそらく、昨日事故現場を直に、ほぼゼロ距離で目撃したから、尚更なのだろう。

 それに……何の因果か知らないが、二人が確実に想い合っていることを、知ってしまっているから。

 余計なお世話かもしれないが。

 そうして思考を巡らしながら待つこと十分。表れたのは、ベージュの外套に身を包んだ、歌い手の彼女だった。他にも人の気配が複数……とちらと密会場所を覗けば、いつぞや店に踏みいってきたあまり心象のよろしくない黒服にサングラスの男たち。

 私はとりあえず、端末のボタンを押し、会話を録音してみることにした。内容はおぼろげにしか聞き取れなかったが、大体こんな感じだ。


「よくこうも毎度、懲りませんことね」

 と歌い手。それに応える男の声はわざとらしく肩を竦めるのがわかるようなものだ。

「あんな廃れたバーより稼ぎも弾むし、貴女はこんな日陰で燻っていていいような存在ではない。こちらに来れば、日の光を、栄光の道を歩めることが確約されているといっても過言ではない。それなのにいつまでも蹴り続ける貴女の神経の方がわかりませんね」

 呆れたような嘆息が聞こえる。流れから察するに、男のものだろう。

 しかし女性は頑なに、首を縦に振ろうとしない。

「確かに、脚光を浴びることへの憧れがないとは言い切れませんわ。けれど、何度もお断りしている通り、私には『Zionあそこ』で歌うことに意味があるのです。ですから、もう諦めて、お引き取りください」

 彼女の毅然とした言葉に、私は感銘を受け、無言ながらもうんうん頷いていた。

 ところが、話はそこで終わらなかった。男がそんな彼女の一途な言を、鼻で笑ったのである。

「あんなおんぼろバーに貴女がすがる理由……それがなくなってしまえば、もういる意味がないのでは?」

 その男の一言に怖気が立つ。──まさか。

 女性がひゅう、と息を呑んだのがわかった。恐らく私と同じ推論に辿り着いたのだろう。

 もう一人の男が口を開く。

「あんたも目の当たりにしたはずだ。あんたがあの店にすがる理由──歌の友とも言える伴奏者のピアニストが無惨な事故に遭う現場を」

「──っ」

 思わず携帯端末をぎりりと握りしめた。昨夜立てた老人たちとの予想は、最悪なことに的中したらしい。

 私は必死に理性を繕い、端末を握り、録音を続行した。

「巻き込まれた彼は全治どれくらいだろうなぁ? もしかしたらもう二度とピアノが弾けないほどずたぼろかもしれないなぁ?」

 それでもあんたの返事はまだNOかい? ──嘲弄するような声が、とても耳障りだった。

 そんな中、しばしの沈黙を持ってから、彼女は決然と告げる。

「私はそれでも待つと誓いました。あなた方の言う通り、彼はもうピアノが弾けないかもしれない。けれど、それはまだ断定できない。ならば私は可能性に賭けます。

 待つわ。いつまでだって待ってみせますとも。

 だから私は今日もNOです」

 こうして彼女はきっぱり振った。

 彼女の決然とした様子、揺るがぬ凛々しさに圧されたのか、男たちはすごすごと帰っていった。溜飲の下がる心地がした。

 私は勿論、会話の全てを録音し、保存して、男たちがいなくなったところで、歌い手にだけは姿を現しておこう、とそちらへ顔を出した。

 歌い手は当然ながら、少々驚いたようだった。

「聞いてらしたの?」

 返答に少し言葉を濁しつつ、まずは端末を示す。

「今の一通りの会話が録音されています。これを持って警察に駆け込むことも可能です」

 そう説得してみるが、彼女は首を横に振った。

「それは、最終手段ということにしてくださいませ。今は事を荒立てたくないのと……」

 ピアニストに思いを馳せてか、少し遠い目を愛しげに細める。

「彼が自ら、戻ってくることを待ちたいのです」

 いつまでも、と告げた彼女を見て、いつぞや顎髭老が「所帯を持つならこんな女性がいい」と言っていた意味を理解する。

 そんな彼女に待ってもらえる彼はきっと、想いが通じ合えば……幸せになれるにちがいない。

 そう願い、祈った。

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