四は来ず
眼鏡老、ピアニスト、私、の三人で並べたら、私が一番よく喋るのだろう。
しかし今は、口を開けなかった。気まずい沈黙が場を支配している。こういう雰囲気をいつも打ち砕いてくれる顎髭老は今日はいないため、長く長く、少々嫌な空気の時間が過ぎていく。
眼鏡老も青年も、口を開かない。眼鏡老は静かにウイスキーを飲み、青年は歌い手のために頼んだであろう水の入ったグラスを所在なさげに手にしたままだ。私は、いきなり関係のない話題を振れるような大胆さもなければ、そもそも話題のレパートリーもない。
私がどう口火を切ろうか悩んでいると、青年がお冷やを煽り、たん、と置いた。それから胸ポケットをまさぐり、ぴらりとメモ用紙を一枚取り出す。それをそのまま、私の方へ──そう、私に差し出したのだ。
そこには最近開かれたという喫茶店の名前がある。甘味が美味しいと独身の寂しい男の耳にも入ってくるほど評判のある店である。
「……これは?」
訊ねると、青年は静かな眼差しをこちらに向け、答えた。
「明日、もしお空きの時間がありましたら、お話ししたいことがあります」
それはなんとも珍妙な相談だった。確かに明日は仕事が休みで暇だが、そういう問題ではなく。
「私に、ですか?」
一昨日知り合ったばかりで、碌に言葉も交わしていないような仲である。相談にしろ何にしろ、持ちかけられるには付き合いが浅すぎやしないだろうか。
それに、噂にもその喫茶店は女性向けと聞く。この店のセレクションは、もしか本当は私などではなく、先程まで言葉を交わしていた歌い手の女性を誘いたかったのではないか? だとしたら健気だし、それを誘われたからといって、ほいほい第三者の私などが乗っていいものだろうか。
「貴方にお訊きしたいことがあるんです」
青年は言った。こうも「貴方に」を強調されては、断ることも難しいだろう。私はわかりました、と頷いて、何時がご都合よろしいでしょう、と合わせた。
逢い引きでもあるまいに、少々緊張してしまったのは内緒だ。
翌日の昼下がり、雨の予報が当たって傘が役に立つ。のはいいのだが、いやはや、ちょっとせっかちだったか、約束より三十分も早く着いてしまった。
ちょうど先日顎髭老が紹介……とも言えないが、穴場と教えてくれた、細路地の灰色の建物が斜向かいに捉えられる位置にあり、なんとなく店の前でぼーっと、その建物の方を見ていた。
澄ましていたわけでもない耳が怒号というには柔らかく、悲鳴というには剛い女性の声が聞こえた。
……立ち入るべきだろうか、と悩むが、雨が気を滅入らせたため、やめた。わざわざ厄介事に飛び込んでいく必要もあるまい。ただ、少し女性の声に聞き覚えがある気がするが……雨に紛れてよくわからない。気のせいだろう。
そうやって考え事をしていると、店の扉が開いた。驚くべきことに出てきたのはあの青年だった。そんなところで何してるんですか、と呆れたような声を出す彼は一時間前から席を取って待っていたらしい。真面目な彼らしいが、私も不慣れで申し訳なかった。
と、中に入ると窓際に席を取っていたらしく、向かい合って座る。
「今日はわざわざありがとうございます」
「いえいえ。ところでお話、とは?」
せっかちだろうが本題を問いかけた。すると青年はうっと言葉に詰まり、十秒……二十秒……三十秒、とたっぷり時間をかけ、ぽつりとこぼしたのは、たった一言。
「あの人のこと、好きなんですか?」
これはなんとも、吃驚である。
何に吃驚かというと、まあ予想していたのよりど直球だったことだ。それに、彼女の好意に全くといっていいほど鈍感であるということ。まあ後者に関しては『あの人』も似たようなものだろうとあたりをつけているが。
人は自分に対して向けられる感情には得てして鈍感であるとどこかで聞いたが、ここまでとは。
微笑ましすぎて笑ってしまう。
「……笑っていないで答えてください。こっちは大真面目なんです」
「おっと失礼。ふざけているつもりは微塵もないのだがね」
私の返事に剥れるあたり、やはり微笑ましい。
「別に恋愛的な好意は抱いていないよ。断言しよう」
弄るのもほどほどにせねばと自分を律し、ようやく真面目に応えた。すると青年は目を丸くする。
「え、……えっ?」
いや、そんなに驚くことか。それともそんなに私と彼女が親しげに見えたのか。心当たりは……あ、なくもないな。
「何、あの人が私に声をかけたり、昨日二人きりになったりしたのは、他意のない単なる偶然だよ?」
とりあえず気にしているであろう部分の図星を指してみる。すると案の定青年はびくんと肩を跳ねさせ直後、真っ赤になって机に突っ伏す。突っ伏した向こうから、「ごめんなさいぃ〜……」と消え入りそうな弱々しい声を出す。
その様子が面白くて、くすくす笑いながら眺めていると、唐突にぐおおん、とものすごい音がした。轟音だ。私は驚いてそちらを見、咄嗟に席を離れた。青年は机に突っ伏していたせいで、ワンテンポ反応が遅れる。
その一瞬が命取りとなった。
がっしゃぁぁぁん……
私が手を差し伸べる間もなく、外から暴走した自動車が、ちょうど私たちの席の方へ突っ込んできたのである。
鳥肌が立った。無論これは私が逃げ延びなかったらという可能性の論理のものではなく、
狙いが澄まされていたかのように私たちの席に突っ込んできたのと、──ピアニストの彼が、逃げ延びていないこと。
「ピアニストくん! ピアニストくん!?」
私はもはや瓦礫と化した席の残骸に呼び掛ける。返事はない。無我夢中で瓦礫をのけて、ピアニストの姿を探す。少し手がひりひりとなるのを感じたが、見つけた。
血塗れで、ぐったりとして、顔は見えるが、手足は見えない。完全に車の下敷きになり少々轢きずられたようにまで見える。
呆然と顔を上げ、車の中を窺うと誰もいない。半開きの後部座席のドアが見える。……逃げたのか。
しかし私が更に驚愕したのはその向こう側。窓の向こうに見える、車道を挟んだ向こうの歩道に立ち尽くす女性がいた。その顔は見間違いでなければ、彼女だ。歌い手の。
彼女はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、しばらくして野次馬が寄ってくると逃げる、と形容するには静かに、ふらふらと姿を消した。
私は彼女を追おうとしたが、誰かが呼んだらしい救急車と警察に、事情を聞かせてほしい、と引き留められ、それは叶わなかった。
私が事情聴取から解放されたのは、もう空がすっかり藍色に染まった頃だった。
ピアニストは幸い命に別状はなかった。腕はしばらく使い物にならないそうだが、治るのだという。意識がまだ戻っていないというのが気がかりだが、病院の面会時間は終わっており、顔を見ることはできなかった。
さて、そんなことがあったわけだが、「Zion」は開いているだろうか。開いていなくても仕方ないし、私に行く義務などはないのだろうが、なんとなく、歌い手の女性のことが気になった。現場でちらりと見かけたのがもし彼女なら、いやそうでなかったにしろ、ピアニストがいないこの状況を、彼女はどう思っているのだろう。
そんなことを考えながらぼんやりと歩いていると、歌声が聞こえた。哀しみを孕んだ心揺さぶられるソプラノのソロ。
……あの歌い手、伴奏なしで歌っている?
私は慌てて「Zion」へ足を向けた。扉を開けると、ステージに一人、歌い手が立っていた。今日は夜空のような暗い藍色のドレスで、薄手のカーディガンを羽織っている。
「貴方を守りたい
それさえ罪と云うなら
この身も何もかもいっそ、滅びてしまうほどに」
ピアノがなくても彼女の歌は圧巻だったが、何かが欠けたような、喪失感にも似た感情がぐるぐると心臓から脳へ駆け上ってくるような感覚に襲われる。苦しくて仕方がない。彼女の声は美しいのに、苦しい。そのためか、聴いている誰もが、杯を傾けることはなかった。
そんな中、やはりただ一人私に気づき、手招きなんて動作をできたのは、二日ぶりに会う顎髭老のみだった。とはいえさすがの顎髭老も歌を遮り、声を出すような真似はせず、私が行くのを待っていた。そんな顎髭老の傍らに座す眼鏡老は、食い入るように歌い手を眺めていた。……否、よく見ると、その奥の空席のピアノ椅子を見ていたかもしれない。
眼鏡老の視界の妨げにならぬよう、顎髭老の元に向かうと、さすがに空気を読んだ低い声で、ひそひそと私に問いかける。
「これは、どういうことかね?」
「……これ、とは?」
「ピアニストくんがいない」
あまりの的確な指摘に、思わず私はぎゅ、と唇を噛みしめた。
「……何故、私が知っていると?」
かろうじて誤魔化そうと言葉を発するが、顎髭老は髭をなぞると、頭を振った。
「鎌をかけたが当たりのようだな。話したまえ」
飲んだくれの印象ばかりが目立つ顎髭老だったが、なかなか鋭い。私はこれ以上誤魔化せる気もしなかったため、両手を挙げた。
「どうも今日は居心地が悪い、お願いだ」
酒も美味くない、と、顎髭老はグラスを干さず、表面を舐めるように啜った。眼鏡老の所作に似ていたが、やはり顎髭老にそれは似合わなかった。
「……話します。話しますとも。けれどせめて、歌が終わってから」
そう懇願し、歌い手の悲しく苦しい旋律が過ぎ去ってしまうのを待った。
やはりピアノがなければ物足りない、というのは私以外の皆が痛感していたであろう。……特に、歌い手の彼女は。
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