第9話

 本当に愛がなかったのだろうか。翠さんが亡くなったことで仁彦は取り乱して僕に掴みかかってきた。殺したのはお前だろ、この疫病神めと。弓削と芦屋に引き剥がされた後もその場に崩れ落ち嗚咽をもらしていた。翠さんの話と仁彦の態度は大きく異なる印象で僕はわからなくなってしまう。僕はやっていない。けれど僕は彼女の申し出に嫌悪し突き放した。あれは殺意だったのではないかと思うと僕はもう自分が信じきれないでいた。今見えているもののどこまでが真実で何が虚像なのか。その考えは澪子の事件でさえ僕の仕業だったのかとまで思わせる。冬村路花が言った僕に憑く虫とやらが今回の凶行を引き起こしているのではないか。その虫には覚えがある。山の祠で僕を食い破ったあの蟲。

 現場の捜査が行われている最中、僕は叔父である清蔵に呼び出されあの山の近くに来た。叔父の姿はそこになく僕は過去について意識を及ばせることになる。全てから逃げたかった時、ここで狼を見た。その導きのまま僕はあの祠に辿り着いたのだ。そこまでどうやって訪れたのかはまるで思い出せない。随分遠くへと歩いたような気もするが記憶の欠落からいって実際どれだけ進んだかもわからない。澪子や翠さんのこと、父の影について頭の中は混濁し破裂しそうで足は全く地についていない感覚だった。

「市哉」

 振り向きざまに強い衝撃があった。僕はその衝撃で身体ごと飛ばされ仰向けに倒れた。脳が揺れているようで吐いてしまいそうだ。清蔵は倒れる僕にのしかかり何度も殴りつけてきた。

「お前が ここに戻らなきゃ こんなことにならなかったんだ 死ね 死ね 蟲憑きめ」

 蟲。清蔵は何か知っているのか。わからない。僕だけが何も知らされていない。蟲。なんだそれは。

 気がつくと家に戻っていた。腫らした顔を見るなり弓削は事情を聞いてきた。先ずは手当てすべきだと言って冬村家の涼子さんが薬を塗ってくれた。母は翠さんのこともあってまた体調を崩していたし由恵叔母さんは事件のことからか口も聞けないほど怯えており、皮肉にも血の繋がりなどない涼子さんが一番気遣ってくれたのだった。

「何があったんです」

「別に」

「別にってことはないでしょ 誰にやられた」

「刑事さんには関係ありません」

 弓削は僕の胸ぐら掴んだ。涼子さんが慌てて止めに入る。

「いい加減にしろよ小僧! 二人も死んでんだ 知ってること正直に話さねえならこっちも守りきれねえぞ!」

 弓削の訴えにも動じず僕は口を開かなかった。

「お前らが何を隠してるかは知らない だがもう次の事件は起きてるかもしれんぞ」

「どういう意味ですか」

「沙沼清蔵が行方不明になった」

 ドクンと心臓が大きく脈を打った。清蔵が行方不明。僕はなぜここにいる。一方的に殴られて、それからどうした。僕は何をした。

「警部! 沙沼清蔵が見つかりました」

 沙沼由恵はそれを見るなり気を失った。清蔵は四肢がちぎり取られた姿で木に引っかかっていた。その様は百舌鳥が行う速贄のような。僕は家に戻る直前まで清蔵と一緒だったはずだ。僕がやったのか。そんな莫迦な。清蔵は大柄で僕より一回り以上もある体格だ。それをあんな高い木の上にどうやって運んだというのか。そんなことが即座に一人で出来るわけがない。しかし僕は叔父とあっている。動悸もある。でもこれは人間の仕業じゃない。その時何処かで遠吠えが響いた。現場に駆けつけた面々は僕を除いて誰も反応していない。僕だけに聞こえる鳴き声。人ならざれば或いは。僕はその場から走り出した。山中をどこへともなく進んだ。弓削の待てという声も振り切りやがてひと気もないところまで逃げ切った。そして再び見つけた。祠だ。あの日、僕が導かれた祠が目の前にある。

「ヤマガミ」

 不気味な笑い声が響いていた。ヤマガミ。僕は誰に教えられたわけでもなくそう囁いた。

ごめんなさい川邊さん。

ごめんなさい翠さん。

ごめんなさい澪子。



ごめんなさいお父さん。


 祠から噴き出した無数の蟲が僕の全身に纏わりついて皮膚を食い破った。不思議と痛みはない。ようやく終わる。僕が初めて死んだ日から随分と経ってしまった。僕は生きていてはいけなかったんだ。




「警部、川邊市哉ですが何処にも見当たりません」

「人が消えるわけないだろ しっかり探せ!」

「随分と気が立ってらっしゃいますね警部殿」

「あんたは 先生 こっちもプロなんでね いろいろ調べましたよ 芦屋法律事務所所長、芦屋信常 数々の裁判で無罪を勝ち取ってきた敏腕弁護士 それが一個人の専属として雇われ始めたのは二年前 ところが事務所に問い合わせてみりゃそんな依頼は受けてませんとね どういうことですかね、先生」

「さて、事務所の手違いでは 現に私はここに」

「芦屋信常所長は御年八十になられるそうですね あんたさ、何者だよ」

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川谷パルテノン @pefnk

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