第8話
「どうですか先生? 奥様のご様子は」
「大丈夫とは言い難いですね 取り調べでしたら後に回していただけると助かりますが」
「取り調べだなんて 参考までにお話をお聞きするだけですよ」
弓削とやりとりしているのは弁護士の芦屋信常だ。僕は彼のことをよく知らない。僕がまだこの家にいた頃から弁護士の出入りはあったが芦屋という男の顔は初めて見る。白髪ではあったが顔つきはまだ三〇代といったところで若く見える。母は猜疑心の強い人だ。誰ともわからぬ得体の知れない人物にこの家の敷居を跨がせるわけはない。何かしらの伝手でもあったか、或いは母に取り入ったのか。だめだ。澪子が亡くなってから妙な考えばかりが湧いてくる。何もかもが疑わしい。なぜ妹は殺されなきゃならなかったのか。
「市哉さん、ちょっといいですか」
翠さんは僕を社の外に連れ出して驚くべきことを告げた。
「澪子さんを殺した犯人、仁彦かもしれません」
「何を急に言い出すんだ あいつは澪子の兄弟だぞ」
「それはあなただってそうでしょ でも私見たんです 仁彦が澪子さんを抱きしめてるところ」
「どういうことですか わけがわからない」
「ずっと疑ってました 仁彦が私以外に相手がいるって 誰かに好意を抱いているって 前にも言いましたよね 私たち夫婦の間はもう冷めきっていて でも悔しかった 女として だからせめて相手を見つけてやろうとあの人の行動を見張ってたらあの人 あろうことか妹の澪子さんに手を出そうとしてたんです」
「莫迦な」
「嘘じゃありません 澪子さんは拒絶してました 表では 勿論あなたにはそんな素振り見せなかったと思うけれど仁彦はもしかしたらその時から根に持っていて」
「なぜ僕にそれを打ち明けたんですか」
「私はあなたが好きです どうしようもないくらい もうこの家は呪われています 怖いの 私と逃げてくれませんか」
冷たいものが身体をすり抜けていった。僕は翠さんの言葉を受けると同時にまたあの得体の知れない感覚に襲われた。けれど今度は何故かひどく冷静だった。
「なぜ僕があなたと逃げるんですか なぜ僕とあなたなんですか 翠さん あなた何を仰ってるんですか」
「市哉さん?」
「僕が愛しているのは澪子だけです あなたみたいな汚れた感覚の持ち主とは似ても似つかない すみませんが逃げたいなら勝手にしてください」
「なんなのよ そんなに妹が可愛いわけ あなた達みんなおかしいわよ!」
「そうだ もし澪子を殺したのが 翠さん、あなたなら僕は許しませんよ ただでは済まさない」
翠さんは泣きながら走り去っていった。違う。何を言っているんだ僕は。違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う今のは僕じゃない。どうなっているんだ。僕は壊れ始めているのか。
「どうかしましたか川邊さん」
「刑事さん、見てたんですか」
「まあそうですね しかしあなた顔に似合わず随分と酷いこと仰る 私が彼女ならぶん殴ってますね 彼女じゃないし刑事なんでしませんが」
「あなたに言っても仕方のないことだが、最近の僕は自分でもよく分からないんですよ あんなこと言いたいわけじゃないのに」
「いつでもお聞きしますよ 事件に関係あるなら」
弓削は嫌な笑い方をした。
「お集まりの皆さん、えー 沙沼澪子さんの死因が判明しました 毒物による内臓の損傷での呼吸困難、つまり窒息死と断定されます」
「それは前にも聞きました それに思われるとはどういう意味ですか刑事さん」
「思われるとは思われるです 毒物が何かは未だ解析中です しかし遺体の状態から見てほぼ間違いないかとそういう意味です」
「そんないい加減な話があるか! 姪は現に殺されたんだぞ! 警察は何をやってんだ!」
「落ち着いてください 我々はこれ以上無駄な犠牲者を出したくはないんですよ あらためてご協力お願いします」
夜になって母がようやく回復し全員で食卓を囲むことになった。毒殺、そんな言葉を耳にした面々は目の前の食事にまるで手をつけなかった。そんな中、刑事の弓削、弁護士の芦屋、それから冬村路花だけは平然とそれらを口に運んでいた。
「お兄様、食べなくて?」
「路花、お前」
「何かもわからない毒をこれだけ警察の方がいらっしゃる中でここに盛るなんていくら用意周到な殺人鬼でも難しいと思うわ 現に平気だもの ねえ? 刑事さん」
「お嬢さんの仰るとおり まあ事件の後じゃ無理もないでしょうがね」
弓削の言うとおり毒を怖れてのことだけではない。目の前で人が死んだのだ。平気でいられるほうがどうかしている。結局、僕も一口もしないまま部屋へと戻った。布団の上で澪子のことを考えるうちに眠りついてしまったのか夢を見た。まだ幼い僕と澪子が座敷で遊んでいる。そこへ父がやってきて、何故か顔のまわりには暗いもやがかかってその表情は見えない。それでも父は僕の腕を引き摺って連れて行こうとする。その時澪子は間に入り、父に向かって「だめ」と言った。すると父は黒い煙のようになって霧散してしまう。澪子は幼い僕に言った。「大丈夫だからね」どうして僕はこの子を助けてやれなかったんだろうか。起きるともう日が昇り始めていた。襖を開くと俄かに日が差して縁側に翠さんが立っているのが見えた。昨日はどうかしていた。彼女に謝ろうと思い近づくと僕の内側からまた悍ましい気配が溢れた。夢に見た表情の見えない父が翠さんの隣に立っている。どうして。僕には声を掛けずともわかった。身体は僕と向き合っているのに頭だけが一八〇度向こうを向いた沙沼翠の違和感。僕の悲鳴と共に彼女の首はずれ落ちて地面に転がった。
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