トマトを齧る彼女を見ていた

ひなみ

本文

 或る晴れた夏の日。太陽が燦々さんさんと照りつける中、幸太郎こうたろうはすっかり日課となりつつある図書館へと赴いた。彼はゆく日も来る日も天候に関わらず、休館日でなければ坂道を物ともせず自転車を漕いて通う。けれども、彼の日毎ひごと手に取る本の傾向には統一性の欠片も見えない。言うならば無作為の織り成す所業。それを裏付けるパラパラと目を通す程度の通読。大学生となったばかりの彼には、どうやら別段興味の惹かれる文書があるわけでもなさそうだ。


 日の遮られた館内。涼しげな空調が来客者の熱を冷ましていく最中、椅子に腰掛けた幸太郎は背景と同化するように佇んでいた。ただ唯一他者との相違があるのだとすれば、その双眸そうぼうは本ではない何かを探しているようにうろつき彷徨っていると言う事だ。


 そうしてこの静謐せいひつな館に一人の女性が足を踏み入れた。きっちりとしたスーツの着こなしに、やや口角のあがった涼しげな表情。髪型にしても一つの乱れもない。そして堂々と颯爽と歩を進める姿勢。彼女におけるすべてが凛としていると形容しても差し支えないだろう。

 その最中さなか、一挙手一投足に固唾を呑む者がいた。何を隠そうそれは幸太郎本人である。


 彼は無意識的に件の女性に惹かれていた。彼女を初めて目にしてすぐに心を奪われたようになってしまったのだ。

 それからと言うもの、彼は決して気取られぬよう彼女の行動範囲内に収まるようになっていった。


 決まって彼女は園芸コーナーの棚で書物を物色し始める。それを知っていた幸太郎はすでにその棚の裏側に潜んでいる。涼しいはずの館内で、彼の頬に汗が伝う。そうして席に着いた彼女は、通算何度目になるだろうトマトの本を開き始めた。

 幸太郎はその様子がよく見えるように、偶然を装い正面に近い席に座る。今日も手にしたのは一切の興味もないガーデニング講座の本だ。


 言うならば幸太郎はその様子だけを読みに来ている。


 彼女はただ、トマトを齧っているのだ。赤く丸い果実に対し、艶かしく舌なめずりをして、小さな口を開け、しゃくしゃくと、ついにはすべてを嚥下えんげすると、幸太郎に向かって微笑む。


 もちろんこれは現実の出来事ではない。けれどもそのすべてが、今まさに彼の想像の中のみで繰り広げられている。

 しかしながら、今日と言う日は普段とは決定的に違う事が起きてしまった。


「君っていつも、私の事を見ているよね」

 幸太郎がおずおずと顔を上げると、本を読んでいたはずのが文字どおり涼しい顔をして見つめていた。その唇はまさにトマトのように赤く、艶のある光沢を放ち弧を描いていた。

 予期せぬ邂逅かいこうに驚いた幸太郎は、何も発する事もできずにすぐ、手にした本の返却をも忘れてこの館から逃げるようにして出ていってしまった。


 それからしばらくの間、幸太郎は図書館から距離を置く事にした。その間トマトを見かける度に彼女の姿が自ずと浮かんでしまい、気恥ずかしさで居たたまれない気持ちとなった。それでも日が経つにつれ彼にはもどかしい気持ちだけが募っていく。そうして繰り返し何度も夢に出てくる彼女は、今日もまたトマトを齧った。


 手にしたガーデニングの本を抱えるようにして、幸太郎はおよそ一月振りに図書館へとやってきた。本来ならば真っ先に返却すべきその本を、手にしてから初めて読んでみる事にした。当然ながら内容への理解はできていない。けれども彼は一方的な想いを寄せていた自分を懐かしむように、ひたすらにページを捲る。


 然る後決意をしたように立ち上がった幸太郎は、あの人のいつも居た園芸コーナーの棚に足を運んだ。当然彼女が居るはずもない。手にした本を元の位置へ戻そうとしたその刹那、彼の視界の外から手が伸びてくる。あっ、と幸太郎からは思わず声が出てしまっていた。


「その本、ずっと気になってたんだ。君っていつもそれを読んでるよね?」

 トマトの君が幸太郎に向けて微笑み掛けていた。けれども幸太郎は慌てたようにどうして、と返答するのみだ。


「また次会えた時に教えてあげる」

 小さな口を開け、艶かしく幸太郎の耳元で囁いた彼女は、いつものトマトの本を彼に押し付けるようにして図書館から去っていった。


 幸太郎は帰りの坂道を猛加速で下っていく。途中にあるスーパーに立ち寄ると幾つかの買い物をして、自身の暮らす狭いアパートへ戻る。ほどなくして彼は、トマトの本の貸出カードの裏側に一枚の紙が挟まっている事に気付いた。


『ガーデニング君は運命ってあると思う?』

 その一言とともに11桁の数字の羅列が並んでいるのが見えた。ベランダへと出ると空にはまぶゆいばかりの太陽が幸太郎を照らす。彼は苦手な筈のトマトを育てるべく、買ってきたばかりの種を鉢植えに蒔いた。

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