踏み台
増田朋美
踏み台
今年も、富士市内の神社で盛大に針供養が行われた。こんなふうに身近な道具を神様に供養してもらうなんて、本当に日本人はものを大切にする民族なんだなと、杉ちゃんも蘭も思った。もちろん杉ちゃんのように和裁を生業とする人には針と言うものは、大事なものなのであるから、こういうふうに針を蒟蒻にさして供養するということは当たり前の事かもしれないが、蘭にとっては、なんだか違和感のある行事のように見える。杉ちゃんは、真剣な顔をして蒟蒻に刺された針を眺めていたが、蘭はなんだか変な風景だなと思って見ているのだった。
「あーあ、今年も針供養ができて良かったな。なんだか、使いすぎた針も、これで少し楽になってくれるかな。」
そう言いながら、杉ちゃんはにこやかに帰っていった。蘭は、
「日本人は、変なふうにものを大事にするんだよな。僕らも手彫りで針を使うけどさ、そういう針は供養されずに使い捨てだよ。」
と、杉ちゃんに言った。
「まあ、着物を縫う針と、刺青をするときに使う針はまた違うってことだよ。」
と、杉ちゃんに言われて、蘭はちょっとため息を着いた。とりあえず、二人は蘭が呼び出したタクシーに乗って自宅へ帰った。二人が、運転手さんに手伝ってもらいながら、タクシーを降りると、蘭の家のドアがガチャンと開いて、
「おかえり蘭。丁度いいところに来たわね。あなたに相談があるって、長谷部という方と、以前あなたが刺青を施した、小林螺子製造会社のお嬢様。」
アリスが、蘭を呼んだ。蘭は、小林螺子製造会社のお嬢様の顔を思い出すことができなかったので、どういう顔をしているか考えながら、自宅に入った。何故か知らないけれど、相談なら僕も仲間に入れてと言って、杉ちゃんがどんどん蘭の家に入ってしまった。
「いま来たわよ。ほら、ちゃんと困っていることを言わなくちゃだめよ。日本では、黙ってるのが一番なんていう変な格言があるけど、黙ってれば何でも解決するわけじゃないのよ。」
アリスが、二人を部屋へ通しながら、そんな事を言った。部屋の中には、一人の女性と一人の男性が座っていた。確かに女性の右手首に、花菱の模様がある。それは蘭が入れたものだ。蘭は、それを見て女性が、小林真奈美さんという女性だと言うことを、すぐに思い出した。でも隣にいる男性は誰なのか、よくわからなかった。
「先生、お久しぶりです。以前、刺青のことでお世話になりました。先生に色々話を聞いていただいて、嬉しかったです。今日もまた相談に乗ってもらいたくてこさせてもらいました。彼は、長谷部浩さんです。昨年父の会社に新人社員で入ってきて、知り合いました。」
と、小林真奈美さんは、蘭に挨拶した。
「はあ、というと、小林螺子製造会社の従業員さんですね。」
蘭がそう言うと、真奈美さんはハイと言った。
「その従業員さんを連れてきたのはなぜです?なにか雇用形態などでトラブルがあったのですか?それとも、従業員の健康管理に問題があったとか?」
「いえそういうことじゃないんです。」
と、真奈美さんは否定した。
「実は、私、長谷部さんと家族になりたいんです。」
「はあ、そう、そうですか。」
と、蘭は驚いてしまった。小林螺子製造の社長さんの娘さんである真奈美さんが、こんな男と家族になるなんて、ちょっと信じられないような感じがある。なんだか、ミスマッチというか合わないカップルというか、そんな気がしてしまうのである。真奈美さんは、普通の女性であった。でも、長谷部さんと言われた男は、車椅子に乗っていた。
「いやあ、珍しいですね。あの、天下の頑固親父と呼ばれている小林社長が、そういう男を雇ったというのが珍しい。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ、法律で、会社は雇わなくちゃならないって父が言ってました。でも真面目に働いてくれますし、私にとっては申し分ありません。だから、この人と家族になりたいんです。ですが。」
真奈美さんは小さい声で言った。
「どうしても、父が結婚は認めないって怒り出してしまって。しまいには、彼のことを解雇するなんて言い出したものですから、私は、どうしたらいいのか、困ってしまいまして。それで、相談に来たんです。」
「そうだねえ。あの天下の頑固親父だもん。簡単には、認めないよ。それに、真奈美さんは、その大事な一人娘だろ。それを障害者に嫁に出すなんて、ありえない話だぞ。あの頑固親父にしてみたら。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「まあ、そうかも知れないけどさ、でもお互い好きになって結婚したいと言うわけだから、あたしは賛成だし、応援したいと思うなあ。」
と、アリスがそう言うが、蘭も杉ちゃんもそうだなという顔をした。
「うーん、お前さんの国家と日本は一味違うぞ。日本は、そういう男性を、受け入れてくれるかどうかというのはまた別というか、偏見というのかな、それもあるからね。一言で言うと、難しいんだよな。それに、結婚は何回もするもんじゃないし、それに、一緒にいるという人が、障害があるっていうんだったら。」
と、杉ちゃんは、腕組みをした。
「そうだねえ。なんだか、僕が見ても、彼女がお父様に反抗したくて、長谷部さんを連れてきたようにしか見えない。それに、一緒に暮らして、トラブルがあったときに、もうそれで終わりだってことにできないのが、結婚というものでもありますからね。」
蘭は、大きなため息を着いた。
「それをお父様は見込んで反対しているのではありませんかね?」
できるだけ優しくそう言うが、小林真奈美さんは、とても悲しそうな顔をした。
「なんでも父が正しいと言えば正しいということになるけど、そういうことはできないって思わせたいのよ。そのせいで私がどれだけ傷ついて来たか。だから、結婚するんだったら、父みたいにあらゆる点で完ぺきな人では無いほうがいいと思ったのよ。」
「そうだねえ。お前さんのお父ちゃんの会社は、そこら辺にある町工場とは違うからね。従業員さんもいっぱいいて、町工場を統括するような立場でもあるからね。確かにお前さんのお父ちゃんが、こうしろと言ったら、そのとおりにすぐなってしまうのは、まあある程度仕方ないよね。」
杉ちゃんは、しかたなく言った。
「でも、若い女性だもの、そう思うのはまだ難しいわよ。」
アリスが、彼女を援護する様に言った。
「だから、お父様の思い通りになってほしくないから、長谷部さんと結婚したいといい出したわけですか。ですが、結婚というのは、非常に難しいものですよ。それに何十年も、彼と一緒にいなくてはならないんです。ときには、あなたが我慢しなければならないことだって山程ありますよ。病気になっても病院にいけないことだってあると思います。それが、果たして、大会社の社長さんのお嬢さんにできるのだろうか、心配で仕方ありません。それができるかどうか。僕はそれが心配です。」
蘭は、思っていることを心に溜めずにそういうことを言った。こういうときは、何でも話してしまうのが一番だと思った。
「まあ、そうかも知れないけど、ときが経てば解決することでもあるわよそういうことは。それに今の時代は、カウンセリング受けるとか、そういう商売も山程あるんだし。それをうまく使えばやり抜いていくことだってできるから。蘭は、ちょっと心配し過ぎよ。」
アリスは、平気な顔してそういうことを言うのだった。外国人は明るいなと蘭は思った。
「まあ確かに、蘭の言う通り、厳しいことを言わなくちゃいけないこともあるかもしれないが、僕は、彼女が自己主張できないほうが問題だと思う。まあ、お父さんが、右か左かの頑固おやじであることは、富士市民であれば知ってるし、それをやっつけるのは、そういう手でなければできないかもしれないぞ。何処の馬の骨かわからない男に娘をやれるかと、怒るかもしれないけれど、乗り越えなくちゃならない壁でもあるような気がするんだよな。それに幸せって、人が定義するもんじゃないしね。僕は、アリスさんの意見と同じかな。」
杉ちゃんもちょっと考えて言った。
「ほら、2対1で可決よ。あなた達も、すぐに籍を入れちゃうとか、お父さんに対抗して見せなさい。勘当と言われても、気にしないことよ。」
アリスは、二人を励ました。
「わかりました。先生の言うことも、頑張って理解するようにします。でも、あたしは、半端な気持ちで言っているんじゃありません。先生がいつも言っていましたね。半端彫りにはしてはいけないって。だから私の人生も半端彫りで終わらせたくありません。だから私のパートナーは、この人で間違いないです。」
そう言って、真奈美さんは、長谷部さんをしっかり見た。長谷部さんも怖がっている様子だったけど、一応頷いてくれた。
「そうですか。わかりました。僕達は、心から応援しますよ。がんばってください。」
蘭は、二人を励ました。二人は、同時に頭を下げて、
「ありがとうございます。」
と、揃っていった。
「まあ、色んな試練があるんだろうと思うけど、頑張ってくれ。」
杉ちゃんに言われて、二人は、もう一度ハイと言った。それと同時にお昼の12時を告げる鐘がなった。
「ああもうお昼?帰らなくちゃ。」
と、二人は、帰り支度を始めた。お昼どうするの?と、杉ちゃんがそう言うと、二人は、ファミレスでもよっていきますといった。真奈美さんが、長谷部さんの車椅子を押して、帰っていくのを杉ちゃんたちは眺めていた。長谷部さんはもしかしたら、手の動きも少し不自由なところがあるようだ。杉ちゃんみたいに自分で車椅子を押すということはできないようである。もしかしたら、日常生活は、彼女にたよりっぱなしということもあるかもしれない。でも、彼女はそういうことを、しっかりやってくれるような女性になるのだろう。そうなって行くスタートダッシュを彼女は切ったのだ。
「まあ、良かったじゃないか。きっと彼女は、いい奥さんになれるよ。」
杉ちゃんがそう言うと、蘭はそうだねといった。
それから数日後のことである。アリスは、また妊婦さんの手伝いがあるということで、朝からでかけてしまっていた。蘭は、とりあえず刺青の下絵を書いていると、
「失礼いたします。彫たつ先生いらっしゃいますか?」
と、玄関先で女性の声がした。何処かできいたことがあるような声である。
「はい。どうぞ。開いてますよ。」
蘭がそう言うと、女性は、お邪魔しますといって部屋に入って来た。それと同時に、車椅子の音がした。あのときの、長谷部さんだ。二人は、ちょっと、大変なことがあったという顔で、蘭の部屋に入って来た。
「今日は、どうされましたか?」
と、蘭は二人に聞くと、
「改めて、父に、彼のことを話しました。そうしたら、父は、逆上して、もう二度と戻ってくるなといいました。どうしても、彼と一緒にいたいと話しましたが、通じませんでした。」
と、真奈美さんは答えた。
「そうですか。まあ、良かったじゃないですか。人間は、どうしても、通じないことだってありますよ。それは、僕も経験がありますのでよくわかります。ですが、日常を送ることは可能ですよ。二人とも、自分自身を大切にしてください。」
と、蘭はにこやかに笑った。
「きっと、日常生活が送れれば、幸せに暮らすことは可能です。大丈夫ですよ。頑張って生活して行ってください。」
「ありがとうございます。」
二人は、にこやかに言った。
「ところで、彼の方は、一体どちらかお悪いのですか?もし、可能であれば、なにか情報が得られるかもしれません。別に物好きで言っているわけではないですよ。これから大事なことでもあるから、僕も知っておいたほうが良いと思いまして。」
「はい。脊髄が悪いんです。脊髄空洞症とかいうもので、私もはっきりとは知らないんですけど。」
蘭に聞かれて、真奈美さんは答えた。
「ちゃんと教えてもらわないと、これからの人生送る上で大変なことになるかもしれません。ちゃんと知っておいたほうが良いと思いますよ。」
蘭はそう言ったが、彼女は、生活していけば大丈夫だと思いますとにこやかにいうのだった。蘭はそこもちょっと、心配だなと思ったが、あえて口にしなかった。
「まあ、いずれにしても、お父様に叱られたことは、いいチャンスだと思ってくださいよ。それは、終わりじゃなくて、新しい始まりです。それを忘れないでください。」
蘭はそう言って二人を励ました。二人は、にこやかに笑って、ありがとうございますといった。そして二人は新しい家に行くと言って、蘭の家をあとにした。
それからまた数日経って。あの二人からの連絡はなかった。きっと新しい家で、楽しく暮らしているんだろうと蘭は、気にもとめなかった。それより、他の客の刺青の仕事もあって、大変忙しかったという理由もあった。その日も、女性客を送り出して、蘭が、さて、次は誰かなとスケジュール帳を確認したりしていると、蘭のスマートフォンがなった。
「はいもしもし。」
「おう、蘭か?今ね、小林真奈美さんから電話があったよ。すごくうろたえた様子で、何でも番号を間違えたんだって。それで僕のスマートフォンに電話をかけたらしい。何かあったのかなあ。」
電話の相手は杉ちゃんだった。それを聞いて蘭は、
「わかった。すぐに小林真奈美さんに電話してみるよ。」
と急いで電話を切り、すぐに小林真奈美さんの番号に電話をかけてみた。
「もしもし、小林さん。伊能です。今日、間違えて杉ちゃんの電話番号に電話をかけてくれたそうですね。一体何があったんですかね?」
蘭がそう言うと、電話の奥から、こんな声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。彼が、入院することになって。私、どうしたら良いのかわからなくて。食事だってちゃんと気をつけてたんですよ。それなのに、彼と来たらどうして、私には、具合が悪いなんて何も話してくれなかったんでしょう。」
小林真奈美さんはそう言っている。
「そうなんですね。それで、容態は安定しているのでしょうか?」
蘭が聞くと、
「それもわかりません。ただ、彼がかなり悪いみたいであることは確かです。お医者さんの話を聞いてそう思いました。私は、直感的にそう思う気持ちがして怖くなってしまいました。」
と、真奈美さんは言っている。
「わかりました。まずはじめに、お医者さんの話をちゃんと聞いて、彼が、どうすれば良くなるか、をちゃんと聞いてください。それができるというのなら、お医者さんの話を聞いて、ある程度、任せることも必要ですよ。大丈夫です。他の人がなんと言おうと、それだけを信じていれば良い。それで、あなたは通してしまえば良いのです。」
と、蘭はできるだけ具体的に言った。こういうときは、具体的に言うのが一番だと思う。
「でもお医者さんに、言われてしまったんです。なんで奥さんなのに何も気が付かなかったんですかって。私、精一杯やりましたよ。だけど彼と来たら、倒れた日にもまるで普段と変わらなかったんですから。それなのに、私、なんで気が付かなかったんでしょう。」
真奈美さんは電話の奥でパニック状態になっているようだ。
「大丈夫です。真奈美さん、公私混同はやめましょう。知らなかったではなくて、これから彼のことを知るようにすればそれで良いんです。もしお医者さんがお叱りになるんだったら、申し訳ありませんと繰り返しましょう。それで、これからは気をつける様にしていけばそれで良いんですよ。大丈夫です。知らなかったことは誰でもあります。どんな人にもあるんです。」
蘭は、そう真奈美さんに言い聞かせた。そして、
「今何処の病院にいらっしゃるんですか!」
とちょっと語勢を強くしていった。
「はい。富士中央病院です。」
と真奈美さんが泣きながらそう答えた。蘭は、
「すぐ行くから、そこを動かないでください!」
と言って電話を切った。蘭は、急いで介護タクシーを呼び出して、中央病院まで乗せていってもらった。こんな時、自分が車椅子ではなくて、ちゃんと歩ける人間だったら、しっかりたどり着くこともできるのではないかと悲しくなった。蘭は、急いでタクシーからおろしてもらうと、中央病院の入り口から、車いすごと飛び込んだ。そして、急患受付に、長谷部浩さんは何処にいますかと聞くと、集中治療室にいると言われた。そうなると、本人に面会はできないが、少なくとも奥さんには会えるのではないかと思って、そこへいってみた。蘭が、集中治療室に到着すると、医師が、真奈美さんに、なにか話しているのが見える。真奈美さんは、一生懸命その話を聞いていた。蘭は、彼女がもしかしたら成長できるチャンスではないかと思って、そのまま聞いていた。確かに彼女は知りませんでしたと繰り返しているのだが、それでも、医者のお説教を、聞いていることができるようになっている。それだけでも、彼女が成長したと思われる証かもしれなかった。しばらくお医者さんのお説教が聞こえてきて、次は看護師さんなどによる入院の説明とか、そういう話を聞くことになった。蘭はそこで初めて彼女の前に出て、お手伝いしましょうかといった。看護師は、何だまた車椅子の方ですかという顔をしたが、蘭は、看護師の話を聞いた。小林真奈美さんも一生懸命看護師の話しを聞いている。時々メモを撮るようなこともし始めた。蘭はこれを見て、彼女は、また、成長できるなと思った。きっと、重い病気のご主人と一緒に生きていくこともできるだろう。
「どうやら、あなたの結婚したい気持ちは、一時しのぎではなかったようですね。僕は正直に言って、お父様から逃げたいだけだと思っていましたが、そうでも無いのかな。」
蘭は、彼女の顔を眺めながら、そう呟いた。確かに、小林螺子製造会社のお嬢さんから、一人の女性に変わりつつあった。それはとてもつらいことなのかもしれないが、それは、彼女がそれ以降平気で暮らしていくための大事な踏み台なのだった。
踏み台 増田朋美 @masubuchi4996
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