第10話・決意

 視界いっぱいに広がる鮮やかな色彩は、ぼんやりした頭を覚醒させて、甘い花の香りに身体が引き寄せられた。


「美しい」


 呟いたら、胸がつまり、涙がはらはらと溢れる。

 くずおれた肩に誰かの手がふれた。


「紗羅、おはよう」

「……っその声は」


 紗羅は、肩に置かれた手のひらに、己の手を重ね、ゆっくりと振り返る。

 想像通りの男が、柔和な笑みを浮かべて佇んでいた。

 慈愛に満ちた瞳は、光に揺れて湖面を思わせる。


 胸が震えるのを感じて、彼の名を呼んだ。


「輪」


 輪は、銀色に輝く長い髪を揺らし、紗羅を優しく抱きしめた。

 温もりに酷く安心して、深い息を吐き出すと、眠気に襲われる。

 ふいに、頭の中にある光景が流れ込み、自分がどうしたのかを教えられた。


 紗羅は混乱して動悸がおさまらず、輪からそっと離れる。


 後ずさりすると、何かに背が当たり、立ち止まった。

 身体が細い糸でできた壁に阻まれて、これ以上は下がれない。

 もう少し先は、崖になっており、底の見えぬ闇が大きな口を開けている。

 背筋が震えて声も出せず、紗羅は地に膝をつく。

 輪すなわち、天子繰無鈴は、穏やかな口調で紗羅に囁いた。


「怖がらなくても良い。私は、これでお前が、あの男を嫌ってくれたのならば、いつでもあやつを殺してくれよう」

「……っ」


 紗羅の脳内はすっかり真っ白であったが、繰無鈴の一言で意思がはっきりとする。


 “牙呂を守らなければ”


 拳を握りしめ、震える手足に必死に力を込めながら、声を絞り出す。


「あんな男、捨て置いてください。俺は、貴方の傍におります」


 恭しく頭を下げて見せれば、繰無鈴は笑って紗羅を抱き起こした。


「かしこまらずとも良い。お前は、幼い頃の可愛らしいままだ。この繰無鈴山にてすごし、灯界の理を学びなさい。いずれは、私の代わりに、人間共に命をくだす役目を担ってもらう」

「……はい」


 己が天子の代わりなど、到底想像できないが、牙呂を守るためならば、全てを背負う覚悟を決めた。

 

 今は、ただただ、自分の稚拙さを責めた。


 ――なぜ……気づけなかったんだ……! こんな奇怪な真似、天子しかできぬ!


「うぐっ」

「!?」


 声は繰無鈴のものだ。

 繰無鈴は膝をついて、苦しんでいる。

 様子を伺いつつ、傍に近寄り、その姿の変化に息を呑んだ。

 銀髪は白髪に変わりかけていて、瞳は色を失いかけていたのだ。

 これでは、まるで、死人である。

 逃げ出したい衝動にかられても、身がすくんで微動だにできない。

 周りの優雅な鳥のさえずりや、天の国のような華やかな山河の景色が、急に不気味な表情を見せた。


「はぁ、は……どちらにせよ、あの男は、邪魔だ」

「え」

「わかるな? 紗羅」

「あ」


 グッと手を掴まれて、力強さに衝撃を覚える。

 繰無鈴は、紗羅の腕を掴んだまま、歪な笑みを浮かべた。

 その顔は、左右で様相が違う。

 片方は美青年、片方は老人、一人の身体にまるで二つの魂が入りこんでいると、錯覚させる。


 紗羅はどうしようもなくて、黙って頷く。

 繰無鈴は、満足したかのように、明るい声音で告げた。


「灯界は、私とお前のものでなければならない……これからもずっとな……」

「……っ」


 近づく繰無鈴の目を見つめたまま、硬直する。

 唇を奪われるが、逃げることなどできず、仕方なく受け入れてしまった。

 冷たい唇の感触に、四肢が冷気につつまかれたかのように震えだす。


 ――ああ……牙呂と、いちどだけ、口づけがしたかった。


 こんなふうに想うと、繰無鈴に暴かれてしまう。

 牙呂を守りたい紗羅は、牙呂への想いを封じ込めることにした。

 彼を完全に守るには、繰無鈴を殺すしかない。

 どうにか繰無鈴を再び下山させて、殺す算段を考えなければ。


 繰無鈴を殺したら、自分も今度こそは死のう。


 口づけの最中、紗羅は大志を抱き、一筋の涙を流した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

執愛の灯 青頼花 @aoraika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ