第9話・胸騒ぎ
牙呂は、紗羅が鶺鴒で男と会っていると下僕から聞かされて気にしていたが、あの無意味に矜持ばかり高い紗羅は、どうせ相手を見下して暇つぶしに利用しているに違いない。
そんな考えは、だんだんと変わり始めた。
最近の紗羅は、しおらしい。
罪人だと自覚して下僕としての仕事をこなし、家に帰り母に逢いたいとせがむ事もなくなった。
牙呂の熱を受け入れた、切なそうに瞳を細めた顔が、脳裏に焼き付いている。
――俺のあの姿について、誰にも話していないようだし。
前のあいつなら、自分が助かるためならば、真っ先に回りにあることないこと言いふらして、牙呂を陥れようとするはずだ。
牙呂は胸騒ぎに耐えられず、こっそりと紗羅の後をつけた。
紗羅は、旅籠屋の入口から中には入らず、外にある階段を上がり、二階にはいった。
牙呂は一時的に姿が見えぬよう、術をかけて、様子をうかがう。
――紗羅?
紗羅は、美しい男を輪と呼び、身を寄せて甘えている様子だ。
輪という男は、白髪がときどき銀色に輝いており、牙呂は呼吸が乱れる。
――なんだ、あの男は……なぜ、紗羅は、あんな男に……!
今まで感じた事のない、焔が胸を焼く感覚に、息も絶え絶えとなり、その場から逃げ出した。
牙呂は、泥のような感情に振り回される。
――あいつは父を殺した!! 母と俺の温情で生かしてやってるだけだ!!
――なのに!! 何故あんな見知らぬ男に……!?
紗羅は、あの輪という男と愛しあっているのだ。
言葉にならぬ感情に苛まれ、激情のままに、紗羅を閉じ込めた。
後に流刑地に送り、己が生涯監視してやろうと、歪んだ感情に支配された。
最後に共に夕食をとった後、用意した流刑地の屋敷へ送る手筈だったのに。
拳で壁をたたき叫ぶ。
「どうして術が解けた!?」
いったいどんな方法で、術を誰がやぶったのだ!?
紗羅の亡骸を棺にいれる際、声をかけてきたのは母だった。
母は、毎日のように紗羅には関わらず、精神統一の修行に集中するよう諭していた。
己の変化については、成人してから始まり、母は狼狽してともかく、これ以上変化に蝕まれぬように気を張れと、口を酸っぱくして忠告してきたのだ。
――母の忠告は正しい。
紗羅が死んでから、頭は彼でさらに一杯になり、後悔の念が生まれていた。
彼は、己の意志で父を殺したわけではないのだと訴えていた。
今となっては、その言葉を信じられなかった自分の愚かさをあざ笑う。
ふと、あの優男の姿が思い浮かぶ。
妙な楽器を奏でる様は、人を惑わすような妖艶な雰囲気を漂わせる。
紗羅を見つめる目は、欲望に満ちていた。
――あの男、紗羅の末路を知ったら、どんな顔をするだろうな。
暗澹たる気持ちに沈み、牙呂は綺咲家の屋敷を出て、旅籠屋鶺鴒に出向く。
鶺鴒につくと、やけに静かなのが気になり、主人に問うた。
「いつも二階の奥の部屋にいた男は?」
主人は青ざめた顔になり、顔を振りながら、突然土下座をする。
さすがに驚いた牙呂は、主人に顔を上げるようにと声をかけて腕をとり、身体を起こさせると、座敷の一室を借りて話を訊いた。
主人はなんども頭を下げつつ、輪の素性を語り始める。
「それで、男はいったい何者なんだ?」
「あ、あの方は、天子様です!」
「は?」
天子と聞けば、誰もが思い浮かべるのは、“天子繰無鈴”であろう。
輪が繰無鈴とは、妄言にしては聞き捨てならない。
詳細を訊くと、主人は輪に術をかけられ、勝手な事は言えない状態にされた上に、邪魔な者は殺すよう、命令されたと嘆く。
牙呂は首を傾げた。
「天子様の邪魔者とは」
灯界を支配する神なる存在に、邪魔になる者などいるのだろうか。
主人は急に激しく震えだし、いきなり立ち上がる。
牙呂の眼前にきらめく刃か迫り、とっさに懐に忍ばせていた短刀にて迎撃した。
刃が交わる高音が鳴り響く。
主人の目は虚ろで生気がないが、その腕捌きはきわめて鋭利である。
数十手交えたが、牙呂の息はすでに弾んでいた。
――このままでは、埒が明かぬ!
もう片方の腕で手刀を繰り出し、主人の脇腹に食らわせる。
主人はぐぼっと声を立てて、唾を吐き出しながら、床にもんどり打つと、動かなくなった。
短刀を握りしめたまま、主人は気絶しているだけだと確かめた後、他に誰もいないのは、あらかじめ主人が追い払ったのだと合点がいく。
「天子繰無鈴に操られていたのか」
――しかし、なぜ俺を狙う? 繰無鈴は紗羅を独り占めしたかったのか?
確かに紗羅を下僕にして、屋敷に住まわせていたが、牙呂がいなくなれば、彼を自由にできるのだと思ったのだとすれば、罪人を助けようとしたという事だ。
「あり得ない」
繰無鈴は、灯界の法則であり、人々の導だ。
牙呂は妙な胸騒ぎを覚えて、急いで屋敷に戻った。
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