◆18 誕生
「うん、素晴らしい結果だ。これならまず間違いなく、あそこに
その日、最終確認の実験を済ませて載せるデータを確定し、トオルは仕上がった論文を主要な
オヅ教授は「僕が共著に入っていいのかな?」と言っていたが、トオルがミワ研究室に入った初日にオヅ教授と交わした議論はその後の理論化や数式化を確かに加速した。それに、査読経験が豊富な教授からの助言は非常に有用だったし、国際公用語の科学技術論文専門の校正者も手配してくれた。
また、トオルとマリコさんの側の都合もあった。学会での口頭発表はもちろんトオルが行くが、所属はカザミ先端物性研究センターを離れ、マリコさんも休職に入りミワ研究室がなくなる。だから、外部研究者からの問い合わせをトオルへ回してくれる人が研究センター内にいてくれたほうがありがたい。そうオヅ教授に頼んで、共著者になってもらったのだった。
「これだけの成果を上げた君なら、ワト研究室でも大歓迎されるだろう」
目を上げたマリコさんが彼を見つめた。
「君は私の期待以上だったよ、トオルくん」
自分が赤面していくのを彼は自覚した。顔が、頭が、体が熱い。その彼を快適な空調の風がやさしく
ふいにマリコさんが思いついたように言った。
「どうだい、今日は二人で飲みに行かないか。ささやかな送別会で」
トオルは飛び上がった。
「だっ、ダメですよ! マリコさんは病院に戻らないと!」
「そうかい?」
残念そうに呟いた彼女にトオルの胸が小さく痛む。だが彼にとっては、マリコさんの体に負担をかけるようなことは絶対に看過できなかった。
彼女がトオルに向き直った。その右手を、差し出してくる。
「長いようで短かったな」
彼は息をのんで、まじまじと彼女の手を見つめた。その手はじっと、彼の手を待っていた。
ためらって、ためらって、彼はおずおずと右手を出した。マリコさんの手が伸びてきて、彼の手を握った。
マリコさんの手はひんやりと冷たく、滑らかだった。指輪の一つも着けていない、でもそれ自体がとても綺麗な、手だった。
「君が私の研究室に来てくれて、本当に良かった」
トオルは目を見開いた。アルトの声が、つないだ手を通して彼の中に流れ込んでくる。
「君の未来が輝かしいものであることを、私は確信しているよ」
ああ、この人は気づいていたんだ。最初から。
ぎゅっとマリコさんの手に力が籠もり、それからゆっくりと、離れていった。
これで、トオルとマリコさんの関係は終わり。そう悟った。だから彼は口を開いた。
「お母さん」
今度は母の目が見開かれた。
「お母さん、お母さん」
幼い子供のように繰り返す彼に、母が破顔していく。
「うん、トオルくん」
そう、幼い頃、母はいつもこう呼んでくれていた。
トオルの胸が一杯になって、言葉が出なくなる。ふふっと母はやさしく笑った。
「トオルって名前を付けたのは、私なんだよ」
初めて聞く話。いや、聞いたけれど幼すぎる彼にはまだよく理解できなくて、記憶に留まらなかったのかもしれない。
「君が二月に生まれるって知ったとたん、テツオくんが『女の子だったらユキコって名前にする!』って宣言したんだ」
思い出したのか、クスクス笑う母。
「私たちが小さな子供だった頃は、まだ中央でも雪が降ることがあってね。私とテツオくんはいつも二人で大騒ぎしてはしゃいだなぁ」
幼なじみだったのか。
「で、テツオくんの宣言に対して、私は『男の子かもしれない、そしたらトオルって名前にする!』って宣言し返してやった。君が男の子だって分かった時にはテツオくん、悔しそうに口をへの字にしたけど、でもものすごくうれしそうでもあったなぁ」
クスクス笑いは続いている。
「トオルっていうのはね、透き
父の名テツオは、昔なら「徹生」と書いたのだと、トオルもそれは祖父から聞かされたことがあった。
「雪の結晶みたいに、透き徹っててキラキラ輝く、そんな子になってくれたらなって、二人で言ってたんだよ」
そしてね、と母は続ける。
「君の未来は、絶対に輝かしいものになる。この三ヶ月で私はそう確信した。研究者としても、母親としても」
微笑んでいるその目に涙があるように見えるのは、トオルの錯覚ではない。
「君が会いに来てくれて、本当にうれしかった」
「……ずっと……ずっとずっと――」
なんとか返事をと彼が出した声も、震えてしまった。
「会いたかったんです……お母さん」
「うん」
「お母さんの手術が終わっても、またお見舞いに来ますから」
「うん」
「待ってて……くれますか」
母は大きく
「もちろんだよ、トオルくん!」
△ ▽ △
トオルは薄暗い廊下を歩いていた。胸が苦しい。それでも彼はこの長い廊下を通り抜け、行かなければならない。静かで穏やかで守られていた部屋を出て、外へと。
気がつけば目の前に重い扉があった。彼はひどくおそるおそるそれに触れた。扉は外の気配を伝えてくる。息を止めて、彼は力一杯扉を押した。
熱風と景色がトオルに吹きつけてきた。その強さに、彼の目に涙が盛り上がる。ギュッと固く拳を握り、口元に押し付けた。
自分は今もう一度生まれる。トオルはそう感じた。自分はかつて失敗作だったのかもしれない。けれど今、輝かしい失敗作としてもう一度生まれる。母の手を、庇護を、離れて。
トオルは足を踏み出した。もう日の落ちた屋外、うっそうとした木々が風に揺れる中を、駆ける。やがて彼の前に
産声のように大きな声を上げながら、トオルは世界へ飛び込んでいった。
〈了〉
失敗作 良前 収 @rasaki
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