◆17 失敗作

 ミワ研究室での最終日。前夜は帰宅したため朝にやって来たトオルは、鍵がかかっていないのに気づいて仰天し焦ってドアを開けた。


「やあ、おはよう」


 先に来ていたマリコさんが、ゆったりとしたアルトの声で言った。


「マリコさん、どうして、大丈夫なんですか!?」


 研究室の中はやっぱり快適な温度と湿度で。やさしい白色と水色で。その中で彼女は微笑んでいた。


「大丈夫大丈夫。ちゃんとお医者さんからオッケーをもらって、来たんだから」


 だからさ、とマリコさんは明るく言う。


「おはよう、トオルくん」

「……おはようございます」


 彼女は満足そうにうなずいた。


 実験装置に向かいながらもトオルはちらちらとマリコさんの方をうかがっていた。彼女は机や本棚の整理をしているようだった。これから彼女は長期の休職をする。後片付け作業は誰かに依頼するにしても、事前の準備は必要だろう。そのための仮退院なのかもしれなかった。


 それとももしかして、最後の日である自分のために?


 トオルは気持ちを新たに装置に向き直った。もう少しなのだ。なんとしても、今日中に結果を出さなければ。


 互いに背を向けて作業を続ける。それでも同じ空間で二人きり、互いを感じていられる。ゆっくりとトオルの心臓が鼓動する。病に苦しむマリコさんの心臓も、どうか今だけは安らかに鼓動してほしい。祈るように、トオルは実験をする。


 黙々と、前日の続きの予備実験を繰り返した。そして昼頃になってやっと、結果を検証し、計算を何度も確かめて、これなら目的の形状が作れるだろう設定値を導いた。ごくりとトオルは喉を上下させる。


 本当に、上手くいくだろうか。自分に作れるのだろうか。急に不安に襲われる。


 そっとマリコさんの様子を見た。彼女は書類に何か書き込んでいた。その真剣な顔の、頬がやっぱり血の気のない白さで。


 トオルは心を決めて、結晶生成装置の開始ボタンに触れた。


 壁面のディスプレイに映る装置内で、ゆらゆらと揺れる液体の中にやがて点が生じた。それが徐々に大きさを増していく。はっきりとした正六角形が現れ、その面積を広げていく。


 そこでトオルは、干渉させる音波の周波数と強さを思い切り変えた。


「……!」


 声が出そうになったのを無理やり飲み込む。ディスプレイの映像上で六角形の全ての頂点が突然とがり、種から根が伸びるようにすうっと伸び始めていた。


 映像を見ながら、音の周波数を変化させる。すると種のそれぞれの根から二本ずつ側根が飛び出した。それらはさらに伸びていき、また周波数を変えると主根から新たな側根が、それまであった側根からもさらに側根が分かれていく。根は分岐ぶんきを繰り返し、やがて一つの形をとった。トオルは音と結晶生成を止めた。


 出来た。彼は信じられない思いでディスプレイを見つめた。そして、マリコさんを呼ぼうと思った。何と言って呼ぶか、考えて考えて、彼は震える唇を開いた。


「失敗した……!」


 その声は自分でも驚くくらい弾んでいた。


「ん、どうしたんだい?」


 背後でマリコさんが振り向いた音。続いて息をのんだ気配。


 ディスプレイ映像の中では六花ろっか結晶が出来上がっていた。かつて空から降ったという、雪の結晶のような。


 トオルはマリコさんの方を向いた。そして浮き立った声で言った。


「失敗してしまいました」


 驚きの表情だった彼女が、ゆっくり、ゆっくり、破顔していく。ピィと彼女は口笛を吹いた。


「これはまた、見事なだねえ」


 トオルの心臓が跳ねた。どくどくと勢いよく血液を送り出し始める。全身が手足の指の先まで熱くなる。


「ぜひとも記録を取っておかなくちゃ。トオルくん、印刷してくれるかい?」


 はいとさっそく現在の映像をプリントアウトする。吐き出された写真の下に、結晶生成装置と音波の設定値、その日の日付を書き込んだ。


 それを渡すとマリコさんは噴き出した。


「報告してくれていた値と、ずいぶん違うね?」

「すみません」


 彼は首を縮めるようにして謝った。彼女はまた笑った。


 トオルのの写真を、マリコさんは長い時間見つめていた。それから透明な封筒を出してきてそれに入れ、彼女の鞄に仕舞った。とても大事な物を大切に仕舞う手つきで。


 彼女が机に向き直り、それでトオルもようやく実験装置へ体を向け、各種設定値を研究上での正しいものに変えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る