◆16 先生

 うだるように暑い外気の中を、トオルは足早に歩いていた。勢いよく真っ直ぐに歩かないと気持ちがくじけそうで、ことさらに速く歩いていた。


 手にはタブレット端末と、まだ粗い草稿ではあるが彼がミワ研究室で達成した成果を論文の形にまとめて印刷した物を持っていた。つまり、無機メタルおよび有機メタルで音波干渉が結晶生成に与える影響を数式化したという論文だ。


 トオルはこれを、あくまでミワ研究室の研究員として発表したかった。しかしもう間もなく彼はミワ研究室を離れてしまう。その期限までに国際学会カンファレンス学術誌ジャーナルに採択されるレベルの論文を書き上げて投稿するのは、トオルの独力ではどうしても難しかった。


 マリコさんに過剰な負担をかけるわけにはいかない。となると、頼れるのはオヅ教授しかいない。厚かましすぎる願いだとは分かっている。でも少しだけでも、力を貸してほしかった。


 オヅ教授と会える約束は取っていたので、以前と同じようにマテリアル第一研究棟の玄関をくぐる。エレベータを待つ間、横に掲示された各階の研究室一覧に目が留まった。金属製のプレートが並ぶ中、最上階の一つ下の階に、不自然な空白があった。プレートが一枚、外された跡のような。


 そっとその空白に触れてみる。ひんやりとして気持ちいい。そう思った。


「あの、どうかしましたか?」


 急に声をかけられ、少し驚いて振り向く。トオルと同じくらいの年齢の男性、おそらく研究員。何かを言いたそうな表情に見えた。


 するりとトオルの口から言葉が出た。


「ここが、ミワ教授の研究室の場所だったのかなと、思いまして」


 すると、見知らぬ研究員は分かりやすく明るい顔に変わって、どこか弾んだ声で言った。


「そうです、そこにマリコ先生の研究室があったんです!」

「……マリコ先生?」

「あ、ミワ教授のことです。僕らミワ研究室所属の人間はみんなそう呼んでたので、今でもつい」


 目を見開いたトオルの内心を誤解したのか、研究員は慌てた口調で説明を付け足していた。けれど、


『……マリコ先生』

『だから先生はむずむずするんだって』


 マリコさんは、トオルとはあんな会話を交わしたのに。


 そこでエレベータが到着し、トオルと研究員は一緒に乗り込んだ。


「……ミワ教授は、研究室の方々から、とても慕われていたんですね」

「はい、それはもう。なので、マリコ先生が病気で長く休職なさるって知った時は、大騒ぎでした」

「それは、大変でしたね」

「僕らよりマリコ先生のほうがずっと大変だったと思います……。残務処理のために年度が替わってからもたまに第一研究棟ここにいらしてたんですけど、いよいよ本格的に入院と治療が始まるらしくて」


 早く元気になって、復帰してほしいです。研究員のつぶやきは、本心からのものに聞こえた。


「そしたら僕はミワ研究室にまた戻りたいと思ってるんですよ!」


 トオルも心からの笑顔でうなずいた。


「早くその日が来るといいですね」

「はい、ありがとうございます」


 もしかしたら、この研究員と自分は将来、同じ研究室の同僚になるかもしれない。そんな淡い夢を胸に、先に降りていった相手を見送った。


 最上階に着いたらトオルはオヅ教授の部屋を直接訪ねればいいと言われていた。トオルもそのつもりだったのだが、通りかかった休憩室があまりにひどい喧噪けんそうで、つい彼は開いたままの入り口から中をのぞいてしまった。


 とたんに、


「あっ、君!」

「たしかミワセンセのとこの!」


 見覚えのある研究員たちが大声を上げた。トオルは反射的に足を引いて逃げ出しかけ、ぐっとこらえる。その間にその研究員たちが走り寄ってきた。


「なあ知ってるか!? オヅ先生と健医センターのカジ先生が婚約したって!」

「どういうことなんだよ!? ミワセンセとうちのボスが付き合ってたんじゃないのか!?」


 トオルはただ瞬いた。状況が把握できなかった。


「おい、ミワセンセが振られたってことなのか!?」

「君なら少しは知ってるだろ!?」


 そもそもマリコさんとオヅ教授が付き合っているという話は彼らから聞いたのだが。トオルには何が何だか分からない。


 そこで急に背後から、かなり低い男声バリトンが聞こえた。


「こら、君たち」


 振り返ると、笑っているが明らかに目は笑っていないオヅ教授が立っていた。


「人のプライベートを、あまりとやかく言わないでほしいな?」


 休憩室は一気に静まり返った。トオルの前にいた研究員二人はすっかり怯えた顔になっている。


「さて、いらっしゃいクボくん。今、飲み物を用意するから」


 慌てて「どうぞお構いなく」と言ったトオルを手で制しながら、教授は冷蔵庫から冷茶ボトルを取り出し二つのコップに注いだ。トレイ片手にトオルを促して廊下を歩いていく。


 オヅ教授の部屋は、ミワ研究室より少し暑かった。恐縮しながら応接ソファに座り冷茶に口をつけたけれど、黙っていることができずにトオルは質問してしまった。


「あの……ご婚約されたというのは……」

「ああ、この年で婚約というのも、気恥ずかしいものだけれどね」


 教授は目元をやわらげて苦笑にも照れ笑いにも見える笑みを浮かべ、半白の髪を手でなでつけた。


「相手の、ヒトミくんの希望で、籍を入れるのが少し先になるから」

「ヒトミ先生って、え、もしかして?」

「ああうん、君も知っているね、健康医療センターのカジ・ヒトミ医師だ」


 一転、教授は真面目な表情になってトオルを見た。


「ヒトミくんとの交際を隠していたせいで、マリコくんにはずいぶんと迷惑をかけてしまった。マリコくんと研究会の打ち合わせをしていると、方便を使っていたのが誤解されて」


 すまなかったねと教授が頭を下げ、トオルは「いえ、オヅ先生のせいではないです」と返す。


 そういうことか。トオルの内に納得の感情が染みていく。


 マリコさんは、研究会の打ち合わせへ行くとトオルに言って、健康医療センターや病院で診察と治療を受けていた。第一研究棟での残務処理もあったのだろう。だからマリコさんは、オヅ教授に会いたくて同行したがるトオルを拒み続けた。重病であることを隠すために。


「マリコくんが私たちを引き合わせてくれたようなものでね。ヒトミくんは、身内だけの簡単な結婚式であっても、大親友の彼女が見届けてくれなければとダメだと。そしてそれは私も同意見だ」


 だから式も入籍もマリコくんの手術が終わって一時外出が可能になってからにする予定だ、と教授はまた少年のようにはにかんだ笑顔になった。


「おめでとうございます」


 今日はいい話ばかり聞く。トオルもうれしくなった。


「いやあ、ありがとう。それじゃ本題に移ろうか」

「はい。実は――」


 少し良い予感がしながら、論文の草稿をテーブルに置いて教授に示した。

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