第10話 共闘・後編
「大丈夫⁈」
風が吹き、視界を遮っていた蒸気が吹き払われた。頬を引き攣らせたニールの顔が、青白く照らし出されている。ぐらぐらと揺れる視線が、魔霊獣とネノたちの間を彷徨った。
駆け寄ってニールたちを庇うべきか、先に獣の気を逸らすべきか、ネノは束の間逡巡した。イシナミを背負っている彼では、素早く逃げることなどできないと思い込んでいた。しかし、事態はネノが予測しなかった方向に動いた。
――ニールは迷いなく、イシナミを放り捨てて逃げ出した。
地面にぶつかったイシナミが、小さく呻いて顔を歪めた。ニールは彼の方を振り返りもせず、一目散に逃げていく。
「えっ」
思考が止まった一瞬の隙を、魔霊獣は逃さなかった。三つの頭が不揃いな牙を剥き出して、無防備になったネノへと踊りかかる。
「しっかりしろ、ネノ!」
鋭い叫び声が聞こえた瞬間、ネノの身体は高く浮き上がった。トヴァンに投げ上げられたことをネノが認識するより先に、目標を見失った獣がそのまま彼に狙いを定める。
「喰らえ、化け物!」
トヴァンは剣を逆手で構えて振りかぶり、渾身の力で投擲した。切っ先が中央の頭の眼球をざっくりと捉え、獣が絶叫しながら身悶える。弾き飛ばされた大剣が棒切れのように宙を舞い、貫かれた頭が泥人形のようにぼろりと崩れた。残された頭が怒りに震え、濁った目から烈炎を垂れ流す。
それらを空中で見下ろしたネノは、受け身をとって着地するかしないかのうちに水流を操り、落ちていく剣を弾いて獣の方へ飛ばした。弧を描いた刃が炎が漏れ出す首の付け根を斬りつけ、頭が割れるような叫び声と共に獣がガクリと膝をつく。トヴァンは飛んできた剣の柄を掴み、傷ついた首をさらに抉るように振り下ろした。
「トヴァン」
「俺は平気だ、イシナミさんをどかしてくれ!」
声を上げたネノに大声で返して、彼は再び敵と向き合った。牙を閃かせる魔霊獣をいなすように切り結びながら、さらなる攻撃の機会を伺う。しかし死に物狂いになった魔物の体からはより一層強く炎が噴き上がり、対峙するだけでも苦痛を伴うようになっていた。
ネノはそんなトヴァンに視線を送りながらもイシナミのもとへ駆け寄り、肩を揺さぶって呼びかけた。
「イシナミさん! 起きて!」
ぼんやりでも意識を取り戻してくれれば、ずっと運びやすくなる。必死で呼びかけていると、皺の刻まれた顔の中で瞼がピクリと動き、ゆっくりと持ち上がった。
「あっちに魔物がいて、トヴァンが戦ってる。イシナミさんは逃げ――いっ⁈」
鈍い衝撃が右目のあたりを襲い、ネノは顔を押さえてよろめいた。素早く上体を起こしたイシナミが、ネノの顔を強く殴ったのだ。頭がぐらぐらと揺れる心地がして、視界が白く瞬く。
「どうし、て」
「……あ……」
うずくまるネノの肩に、無骨な手が触れた。
「すまなかった。敵と、間違えた」
「うぅ、」
助け起こすはずだった彼に支えられるようにして、ネノは立ち上がった。少しぼやけていた視界が、戦い続けるトヴァンを捉えて鮮明になる。
「ごめん、行かなきゃ」
ネノは支えられていた手を離して、真っ直ぐに駆け出した。ほとんど炎の塊のような魔霊獣の方へ、姿勢を低くして飛び出していく。敵の間近に迫った瞬間、右手を下から上へ振り上げた。
燃え盛る獣の足元から無数の水柱が生まれ、蔦のように全身を絡め取る。水蔦の檻はすぐに重力に従って崩れ落ちたものの、水浸しになった獣の炎は急速に弱まった。その隙を逃さず、トヴァンは千切れかけていた左の首を切り落とした。
ネノは肩で息をする彼の隣に並んで、唸りを上げる魔霊獣と向き合った。トヴァンは「離れろ」とは言わなかった。代わりに、短く尋ねた。
「あいつの火、抑えられるか」
「できる」
「分かった」
頭一つになった獣が、声高に咆哮する。
二人は示し合わせたように、同じ方向へ駆け出した。
行手を遮るように迸った炎を、ネノの魔法が的確に押し流す。生まれた空白を突いて、トヴァンの刃が敵の身体を抉った。まず肩を、次に脇腹を、そして脚の付け根を。獣は再び膝をつき、所構わず炎を吐き散らした。身を引き裂くほどの怒りだけが、獣を動かしているようだった。
「往生際の、悪い奴だな……!」
トヴァンが剣を振りかぶり、ネノが先んじて水の蔦を伸ばす。しかし激しさを増す炎は、水を残らず蒸発させてしまった。
(どうしよう、)
歯噛みするネノの耳に、声が届いた。
「『勇者』」
思わずそちらを向くと、少し離れたところでイシナミが足を庇いながら立っていた。鋭い瞳がネノを射て、重々しい声が端的に告げる。
「種を使え。それの光は、弱った闇を消せる」
「! 分かった」
ネノは呼吸を整え、左手でケースを開いた。落とさないように気をつけながら、手のひらにそっと種を移す。握りしめた手を軽く開くと、金色の光が指の間から溢れた。
「……! ……」
炎が、動揺するように揺れた。濁った目を細めて、魔霊獣が拒むように頭を振る。明らかに、獣は光に怯えていた。
ネノは左手で種を掲げたまま、右手を少し持ち上げた。ありったけの念を込めて、逆巻く水の流れを想像する。渾身の力で腕を振り上げると、竜巻のような奔流が獣の全身を包んだ。
「……!!!!!」
水と炎がせめぎ合って、周囲が一瞬真昼のように照らし出される。トヴァンは大剣を構え、光の方へ突き進んだ。
凄まじい水流の中で、眩しい炎が、ぐらりと陰った。
「今だ!」
ネノは獣を包んでいた水の檻を崩し、トヴァンの足元から水を吹き上がらせた。その勢いを借りて、トヴァンは高く跳躍する。
「受け取れ、この野郎!」
振り下ろした切っ先が、獣の脳天を貫いた。
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