第8話 神種勇者譚

 それから十数分後。


「ちょっと、ちょっと待って……!」

「きっと勇者もそう言っただろうさ。手には短剣、頭には鳥の巣。木の枝でずたぼろになった服は、もう何も隠しちゃくれてねえ。『さすがは勇者。生まれたままの姿で土と緑を浴び、精霊への敬意を示すとは』『違う、ただ森で迷って転んだだけなんだ』『ああ勇者さま、何たる覚悟! 闇に眩んだ水龍の目も、見開かれるに違いない!』『さあ、いってらっしゃい!』『お願いだ話を聞いてくれ、そして僕に服をくれ!』」

「ちょっと……!」


 歯を食いしばって肩を震わせていたネノは、ついにヒィヒィと声を漏らして笑い始めた。今にも膝を折ってしゃがみ込みそうな有様だった。激しく揺れる松明から、大量の火の粉が舞い散って辺りを照らし出す。


 トヴァンが語っていたのは、百年前の【神種の勇者】がエテリシアを悩ませる龍に立ち向かう物語だった。


 神樹の力が弱まりつつあった五国では、それまで国を守っていた精霊たちが闇に染まり、人々を脅かすようになっていた。苦しむ人々を見て胸を痛めた勇者は深い闇を和らげる神種を携え、正気を失った精霊たちを解放する旅に出たのだという。

 もっともその旅路はお世辞にも颯爽としたものではなく、面白おかしい波乱に満ちたものだったようだが。


「エテリシアの水を守る精霊王、その名は水龍レヴィアタン。闇に心を染められた彼女は、愛すべき民の顔を忘れた。優しい瞳は何も映さず、全てを憎んで大水を起こした。民もいつしか龍に怯え、平和だった頃の思い出を忘れた」


「そんな龍にも一人だけ、想ってくれる人がいた。龍の血をその身に受け継いだ、精霊の森で暮らす水の姫だ。姫は気立ても良くて美しく、鈴を転がす声の持ち主だった。しかし龍の苦境を知った姫は、思い悩んで笑うのをやめた。そんな彼女は勇者が来た日、一年ぶりに大笑いした。なにしろ勇者は真っ裸だ。『そんな格好で何しに行くの? 鳥の巣まで頭に乗せて!』」


「どこまでも澄み切った姫の声は、荒んだ龍の心にも届いた。しばらくぶりに開いた目で、龍は勇者を目の当たりにした。そして思いっきり叫んだ。『そんな格好で何をしに来た? 鳥の巣まで頭に乗せて⁈』」


 ネノはすっかりツボに入ってしまい、声を上げて笑い始めた。息を切らしながら切れ切れに、「そんなことある……?」と呟いている。


「勇者にとっちゃ不本意だったが、とにかく龍の眼は開いた。そうとなったらこっちのもんさ。闇を拭い去る神種の灯が、しかと彼女の瞳を捉えた。水龍の鱗は美しく輝き始め、引き剥がされた闇は怒って暴れたか――どうだったか。ま、どうせそんなに見栄えのする戦いでもなかっただろ。省略だ省略」


「いい所を削るなよトヴァン。そこが見せ場だろう!」


「チッ、分かったよニール。レヴィアタンを取り巻く水が、にわかに黒く染まり始めた。さらさらの水は粘りを帯びて、生き物のように蠢き出した。そしてグルルと一声唸るや、水龍の身体を締め上げた! 弱った龍は抗えない。真っ黒い水に操られて、ガバッと勇者に襲いかかった。間一髪! 危ういところで牙を避けて、勇者は自分の剣を構えた。龍の背中を駆け上がり、絡みつく闇を斬り払う。後から後から湧き上がる黒い水は、まるで大きな蛇の群れだ。斬って千切って蹴落として、足を掬われ振り払い、そして――」


 気付けばネノは松明を両手で握りしめ、ワクワクしながらトヴァンの話に聞き入っていた。慣れた調子で語る彼の背中の方からは、真紅の尻尾が揺れるぱさぱさという音がする。


「――こうして勇者は戦いの末、龍に取り憑いた全ての闇を削ぎ落とした。五国で最も甘く清い水が満ちた湖で龍は再び眠り、優しい雨をエテリシアに降らせるようになった。全てが丸く収まったのを見届けもせず、勇者は足早に旅立った。彼がやるべきことは、まだまだたくさんあったからな。それに服も着たかった」


「さすがに服はもう着てたでしょ!」

「ハッ、それもそうか」


 ふう、とトヴァンは息を一つ吐いて、「これでひとまず話は終わりだ」と宣言した。

「どうだ? 勇者の旅なんてろくなもんじゃねえだろ」

 素直に「面白かった!」と言おうとしていたネノの口は、ひねくれた言葉を打ち返すために別の言葉を吐き出した。

「よく言うよそんなに尻尾振ってさ。面白いって自分でも分かってるでしょ?」

 ぎょっとした様子でトヴァンは振り返り、自分の尻尾を確認して口元を押さえた。

「ッあークソ、今マント被ってねえんだった。そうさ、面白いに決まってる。何しろ【神種の勇者の伝説】は笑い話だからな。うんと面白く語って、聞く方もゲラゲラ笑うのがお決まりなのさ」

「……確かに、市場でも『うんと面白く歌えよ!』って言ってる人がいたかも。でも変じゃない? 勇者は失敗して、しかも……死んじゃったんだよね?」

「そういやどうしてだろうな。気にしたこともなかったぜ。まあ大方、」


 そこでトヴァンは言葉を切って、ピタリと足を止めた。


「どうしたの?」

「このまま無事戻れるかと期待したが、そう上手くは行かねえみたいだ。――後ろから、魔物がついてきてる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る