第7話 世界の姿

 たっぷりと水を吸った帆布の下から引っ張り出されたびしょ濡れの青年は、ニールと名乗った。まだ気を失ったままの初老の男は、イシナミという名前らしい。二人とも顔色は良くなかったが、急に悪くなる心配はひとまずない様子だった。


「みんな名前の響きが違うんだね」

「故郷が違うんだよ。僕はここから南のエテリシア、イシナミさんは西の方のシナツって国から来たんだ」

「トヴァンは?」

「俺は――ちっとややこしくてな。どこってのは特にない」

「国がない場所もあるの?」

「そんなもんさ」


 ふうん、と唇を軽く尖らせながらネノがニールの服に手を添えた。汚れを拭うように指先を滑らせると、布を濡らす水がするすると引き出されていく。蔦をたぐるように水流を操りながら、ネノが重ねて質問した。


「市場で聞いた歌で『五国』って言ってた。あと三つ国があるってこと?」

「ほぼ正解、ってとこだな。北東にずっと行った先が大国グルフォス、それよりもっと北に行けば炎と渇きの国アレースラがある。最後が大陸のど真ん中に“あった”国、百年前に滅びた祝福の国ラティスだ」

「滅びた……」

「言ったろ。百年前の勇者サマが神種を植え損なって、世界は一度終わったのさ。一番手酷く闇に覆われたラティスは、もう国として崩壊しちまったんだよ」


 ネノは少し手を止めて、思案するように俯いた。その細い首からは、紐を結び直した神種のケースが下がっている。


「その時の勇者は、どうして種を植えられなかったの?」

「さあな。知ったこっちゃねえよ」

「百年前の勇者にまつわる伝説は色々あるんだけど、彼が死んだ時に何が起きたのかについては誰も知らないんだ」

 ネノの魔法で服を乾かしてもらい、人心地ついたニールが口を挟んだ。

「”闇の王”との戦いに敗れて命を落としたと言う人もいれば、旅の途中で変なものを食べて食あたりを起こしたんだろうなんて言う人もいる。僕は闇の王と相討ちになって死んだって説が好きだな」

 乾かした薪に火をつけようとしていたトヴァンが、それを聞いて笑った。

「ハッ、いい歳して夢見てる手合いか」

「なんだって」

「闇の王なんて元々の伝説にはひとっことも出てこねえだろ。何とかして勇者の死に理由をつけたくて、誰かが作った話に違いねえぜ」

「エテリシアの龍を鎮めた勇者さまが、並大抵のことで死ぬはずないだろ」

「アレースラで砂漠の落とし穴にすっぽりはまって、族長の娘に掘り出されるまでメソメソ泣いてた奴だぜ。しょうもねえ理由で死んでたっておかしくないさ」

「そのおかげで古代の神剣を見つけて魔獣を打ち破ったんじゃないか、ただの情けないやつみたいに言うなよ」

「美化しすぎるのもどうかと思うがな。グルフォスの巨大洞窟での戦いだって――」

「――えっと、」

 ネノが割って入り、二人は口をつぐんだ。

「もしかして二人とも、前の勇者のことが大好きだったの?」

 ニールは頷き、トヴァンは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「好きに決まってるさ。エテリシアの民はみんな、小さい頃から勇者伝説を聞いて育つからね」

「結局失敗した勇者サマなんて、偉くもなんともねえだろ。だが……あいつは、本当に喜んで聞いてた」

「あいつ?」

 火打ち石がガギンと嫌な音を立てた。失言に気付いたかのように、トヴァンが顔を顰める。重い溜息をつき、口を開いた。


「二つ下の妹だ。ガキの頃、戦争のどさくさでどこかに攫われた」

「そっ……か」


 ネノは口を軽く開いて、それから閉じた。実のところ聞きたいことは山ほどあったが、彼の様子があまりにも苦しげだったので、何も言えなくなったのだ。しばらく火打ち石の音だけが響き、気まずい沈黙が流れる。やがて、ネノはおずおずと言葉をこぼした。

「トヴァンが盗賊をさっさと抜けたかったのは、妹を探すため?」

「ああ。そうだよ」

 音高く打ち付けられた石から火花が飛び出し、火口にぽろりと落ちた。息を吹き込むと鮮やかに燃え上がり、ぱちぱちと火の粉を散らす。乾かした木切れに火を移して、トヴァンは小さく呟いた。

「はぐれた家族に会いたくない奴なんていねえだろ」

 その目があの時と同じ色をしているのに気付いて、ネノの中でひとつの疑問が解決した。

「もしかして、あの時様子が変わったのは……オレが『家族のことを知りたい』って言ったから?」

 トヴァンが不自然に固まって、それから慌てたように目を逸らして鼻を鳴らした。どうやらこれが彼の肯定のようだった。

「やめだこの話は」

「なんでだよ。照れたの?」

「あーうるせえうるせえ! 聞くな!」

 二人の会話を聞いていたニールが、堪えきれなくなったように吹き出した。

「君がいるとこいつは調子が狂うみたいだ。いい機会じゃないかトヴァン、その下手な悪党面はやらない方が何倍もマシだって前から思ってたんだよ」

「余計なお世話だよクソ。……んな事より」

 舌打ちした彼は、強引に話題を変えた。

「これからどうする。月が高いうちに移動するか」

「それが一番安全だろうな。イシナミさんが起きるのを待ちたいのは山々だけど、月が傾いて暗くなったらまずい」

「サラキアに戻るか?」

「人里は遠いし、それしかないよな。一応、できるだけ迂回しよう」

「だよなぁ。ニール、イシナミさん担げるか」

「左肩使えば、なんとか」

「わかった」


 トヴァンは帆布の下から引き出した鞄を漁り、中から取り出した包みを開いてニールの方へ差し出した。続いて同じものを、ネノの鼻先に突き出す。黒い木切れのようなものが、油紙の上に乗っていた。


「何これ」

「干し肉だよ。見た事ねえのか?」

「さっき、市場で売ってたかも」

「多分それだな。ほら、さっさと食え。こっから歩くぜ」


 ちらりと視線をやると、ニールは無事な左手で干し肉を掴み、口に運んでギリギリと噛み切っていた。その動きを真似るように、ネノも干し肉を摘み上げて歯を当てる。引っ張りながら顎に力を入れると、繊維が千切れるような音がして欠片が口の中に収まった。

「……もそもそする」

「そりゃな。諦めろ」

 見よう見まねでネノが食べ終えると、トヴァンが荷物をまとめて立ち上がった。イシナミを抱え起こし、ニールが背負えるように体勢を整える。その仕事を無事片付けると彼は乾いた木の束に布を巻き、焚き火の炎を移して簡単な松明を作った。

「持ってろ」

「わっ」

 軽い調子で燃え上がる木の束を手渡され、慌てたネノは何度か手の中で松明を弾ませた。しっかりと持ち直し、火の粉を散らす炎をしげしげと見つめる。

「魔物は強い光に怯むんだ。多少なら遠ざけられるぜ」

「光を襲うのに光が怖いの?」

「怖いからこそ憎いんだろうよ」

 大雑把に答えたトヴァンは大剣の鞘をしっかりと括り直し、自分も燃える木切れを拾い上げた。

「行くか」

「トヴァン」

「なんだよ」

 呼び止めたニールを、彼は怪訝そうに振り返った。

「せっかくだし、道中この子に語ってあげなよ。【神種の勇者】のお話をさ」

 トヴァンは思い切り顔をしかめたが、ネノの眼差しに気付くと、舌打ちして意地悪げに笑った。


「うんと情けなく語ってやるから、せいぜいがっかりするんだな」

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