第6話 人心地
見る間に打ち倒されていく闇の化身たちを呆然と眺めていたトヴァンが、ややあって我に返ったように剣を持ち上げ、地面で呻いていた最後の魔物に刃を叩き込む。
歪に蠢く闇は、今や綺麗さっぱり消え去った。文字通り洗い流されたような景色が、二人の前に広がっている。
「お前、魔法使えたのか」
呟くような彼の言葉に、自分が魔法を振るった跡を眺めていた子どももぽつりと答えた。
「ついさっき気付いた。……オレもちょっと、びっくりしてる」
その言い方に、トヴァンが軽く笑った。
「ハッ。びっくりしてるっつー暴れ方じゃなかったぜ。さすがは勇者サマって事か」
子どもの顔が綻んで、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「アンタも! 一人でここまで持ち堪えてるなんて思ってなかった。口だけの奴じゃなかったんだね」
「舐めんなよ新米勇者。俺がどれだけの年月、この剣で世の中を渡ってきたと思ってる」
「どのくらいなの?」
「……お前……。七年くらいだよ」
「七年間、ずっと盗賊?」
「他の事もしたさ。そりゃあもう色々な」
「たとえば?」
問いに問いを重ねる子どもに、トヴァンはふっと苦笑した。
「ほんと質問ばっかだなお前。好奇心旺盛なのも、程々に――」
言いながらその長身がふらつき、糸が切れたようにずるずると座り込む。
「大丈夫⁈」
「平気だ。……あークソ、気が抜けた……」
顔を覆って呻く彼の背に、子どもが心配そうに手を添える。改めて全身に目を配ってみれば、彼はまさしく満身創痍という有様だった。足や肩を硬く縛った止血用の布には赤が滲み、肌が見えている部分もそこかしこに掻き傷や擦り傷が付いている。初めて目にした時驚かされた耳はぺたりと伏せられており、見るからに疲れ切った様子だった。
しばらくおろおろしながらトヴァンを見つめていた子どもだったが、やがて荒かった呼吸が整ってきたのを見てほっと息をついた。周りに危険がないことを確かめてから、すとんと彼の横に腰掛ける。空を見上げると、いつの間にか天高く昇っていた満月が周囲を煌々と照らしていた。
(間に合って、よかった)
蹄の跡を辿って駆け戻り、トヴァンを取り囲む異形の獣たちを目の当たりにした時、全身の血が一度に引いたような心地になった。この世界に関する知識という知識が抜け落ちている子どもにも、あれらが「魔物」――この世から外れたものだということは、はっきりと分かった。
(「そして神種は、大地に根付くその時まで、絶えず闇から狙われる」だっけ)
どうやら自分は当分の間、あれらに追われ続けるらしい。思い出すと肌がぞわっと粟だつような気分になって、そっと腕をさすった。
「……」
しかし好奇心でいっぱいの子どもの心は、すぐに恐怖を追いやってしまった。実のところ、視界の隅にチラチラと見える「あるもの」がずっと気になっていたのだ。
(どうなってるんだろうこの……耳とか、尻尾とか)
戦いの途中で脱ぎ捨てたのか、トヴァンはマントを身につけていなかった。旅人らしい簡素な服装の中で、血の色の他に一際目立つ赤がある。泥水で汚れながらもふさふさとした形を残している尻尾と耳をじっと見てから、子どもは尻尾の方へそっと手を伸ばした。
(少し触るくらいなら、平気だよね?)
気付かれないようにじりじりと、手のひらを近づけていく。あと少しで毛並みに指先が埋まると思った瞬間、
「お前の名前を聞いてなかった」
「えっなに⁈」
不意にトヴァンが口を開いたので、子どもはその場で飛び上がりそうになった。その手が尻尾の方に伸びていることに気付いて、トヴァンの口元に思わず笑みが浮かぶ。しかしあえてそこには触れずに、重ねて問いかけた。
「お前の名前だよ。まさかそれも覚えてねえってのか」
ばっと手を引っ込めた子どもは躊躇なく、こくんと頷いた。
「うん、覚えてない。とりあえず誰かに聞かれたら、ネノって言うつもりだった」
「ネノ? 変な名前だな」
「種と一緒にあった、このケースの側面に書いてあるんだ。ほんとは他にも何か書いてあったみたいだけど、だいぶ消えてて『ネノ』の部分しか読めない」
「……なるほど」
「おっさんは? トヴァンで合ってる?」
「おー。合ってるぜ」
「トヴァンは――えっと」
身を乗り出しかけたネノが、口籠って姿勢を戻した。先ほどあれこれ尋ねようとした時に、トヴァンが倒れかけたのが応えたらしい。その様子がおかしかったのか、目を細めた彼はネノの肩をぽんと叩いた。
「んな慎重になる事はねえよ。話す気力ぐらいは戻ってきた。けどまずは――」
二人の背後、ひしゃげたテントの残骸から押し殺したくしゃみが聞こえた。
「あいつらに、しばらくは安心だって言ってやらなきゃな。手伝ってくれ」
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