第5話 闇と清流

 ――備えも力もない者は、夜になったら決して明るい場所を離れてはならない。光なき場所で闇は形を得て、踏み込んだ命を食い殺すから。


 五国に暮らす誰もが、幼い頃からそう言い聞かされて育つ。

 形を成した闇は魔物と呼ばれ、見境なく人や動物を襲う。人々は明るい町や集落に身を寄せ合い、篝火や街灯、あるいは灯台の光が自分たちを守ってくれることを祈りながら毎夜眠りにつくのだ。 



(今日が満月で、まだ良かった)

 ほとんど剣に縋るように立ち、前方を睨みながらトヴァンは思った。考え込んでいられるほどの体力は一欠片も残っていなかったが、何かを意識に置いていなければいつ気を失うか分からない。寒い季節ではないのに血を失った身体は芯から冷たく、手足の先はほとんど感覚がなくなっていた。


 置き去りにされてから、五回魔物と戦った。

 魔法を使えない彼には、剣を振り回すしか魔物を倒す術がない。刃を叩きつけ、こちらが殺される前に向こうを殺す。幸い、体の頑丈さにだけは恵まれていた。それだけでここまで生きてきたのだから、今回もそうやって生き残るしかないだろう。

 ずる、と湿った音を感じ取り、トヴァンは素早く身構えた。飛び掛かってきた黒い塊を、横薙ぎに斬り払う。刃先が泥に埋まるような感覚が手に伝わり、ゾッとする悲鳴が上がって塊がべしゃりと落ちた。


(何度見ても気持ち悪ぃな……)


 夜に溶け込む暗色の獣が、不自然に体を震わせながら篭った声で喚いている。大きさは猪程度だが足先には蹄の代わりに半月型の鉤爪があり、異様に発達した後脚と大きな耳は巨大な兎を思わせる。額には歪に枝分かれした二本の角があり、細かく走ったひび割れから異様な燐光が漏れ出している。しかし何よりも悍ましかったのは、鼻先から首までびっしりと開いた無数の目だった。一つ残らず白濁したそれらは恐らくほぼ何も見えていないにも関わらず、ギョロギョロと不規則に動いて虚空を睨みつけている。

 ギィッと叫んで飛びかかる魔物に、トヴァンは再び剣を振った。硬い音がして、燐光を帯びた角が砕け散る。しかし跳躍の勢いを殺すことはできず、傷ついた肩に獣の体が直撃した。

「いっ……!」

 簡単に止血しているとはいえ痛みは凄まじく、目の前がチカチカと瞬いて息が詰まる。奥歯を噛み締めてどうにか身体を反転させ、背後に落ちた魔物の胴に深々と刃を突き立てた。

 濁った目が全て見開かれて歪み、断末魔の叫びと共に魔物が形を失って溶けていく。足下に残るのは血溜まりではなく、ぐずぐずに崩れた黒い土塊だった。


 がっくりと力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになったのを何とか持ち堪える。体の調子が万全でさえあれば難なく退けられたであろう魔物たちにここまで苦戦しているという事実が、トヴァンの気持ちを重くさせた。

(夜明けまで、あとどれくらいある?)

 むしろ、まだ日は暮れたばかりだったはずだ。せめて火があればと周囲を見渡してみるものの、土に埋もれた焚き火からは温もりの欠片すら感じられない。


 ふと、支えの折れたテントの下から声がした。

「……トヴァン」

 驚きで一瞬詰まった息を、ゆっくりと吐き出す。

「ニールお前……生きてたのかよ」

「ご挨拶だな。死んだと思ってたか」

「正直……気に留めてなかった」

「ひどいな」

 帆布の下に蹴り込んだ手負いの同僚は、掠れた声で軽く笑った。

「イシナミさんも無事なのか」

「一応、息はしてる」

「大した悪運だな。――じゃ、出てきて手伝ってくれるか?」

「……すまない、それは」

「冗談だよ、腕やられてたろ。役立たずはそこでじっとしてな」


 再び獣の唸りを感じ取り、トヴァンは腰を落として剣を構えた。濁った目を暗い憎悪に歪め、不揃いの歯を剥き出しにした狼のような魔物が二体こちらを睨んでいる。先ほど倒したものより、一回り大きい。

「また来た」

 一体が跳躍したのを合図に足を踏み出し、身体を低くして大剣を振り下ろした。刃が首の付け根を捉え、胸の辺りまで深く斬り裂く。悲鳴を上げてもんどりうった魔物の姿に背後を狙っていたもう一体が怯んだ隙を逃さず、身体を回転させて両方を視界に収めた。傷付いた足と肩の痛みからは一旦目を逸らし、剣を横一文字に振り抜いて二体を同時に斬りつける。


 魔物たちが崩れ落ち土塊と化した瞬間、剣を握っていた手の甲に鋭い痛みが走った。突然の衝撃に手が緩み、大剣が音を立てて滑り落ちる。急いで手を伸ばそうとした時、トヴァンは正面から何かに吹き飛ばされた。

「――!」

 鳥のような翼を持つ異形の獣が、けたたましい鳴き声をあげながら彼の方へ突っ込んでこようとする。その鉤爪を寸前で避けた彼の視界で、無数の黒い影が蠢いた。

「クソ!」

 剣をとる余裕は無い。テントの残骸から折れた木切れを引き抜き、見る間に迫ってきた魔物の目を思い切り突いた。仰け反った魔物の腹を蹴って距離を取り、また現れた獣の喉笛を尖った木片で深く切り裂く。

 もはや自分がどうして動けているかも分からない状態で、トヴァンはがむしゃらに魔物の群れを振り払い続けた。大剣に比べて間合いを取れない分、一つ動くたび腕に肩に傷が増えていく。肺が焼けるように痛み、無理やり息を吸った喉がヒュウと鳴った。


 まるで地面から湧き出ているかのように、次々魔物が現れる。状況は、明らかに劣勢だった。倒した獣の残骸が湿った泥として降り積もり、足場をさらに悪くする。力任せに押し寄せる魔物を跳ね除けた瞬間、嫌な音がして手の中の木材がへし折れた。

(不味い)

 体勢が崩れ、そこにすかさず魔物の牙が迫る。真っ当な生物のものではない歪んだ眼球が、長さも大きさもまちまちの何層にもなった歯が、いやというほど鮮明に目に映る。


 その時、鈍い衝突音がして魔物の動きが止まった。


 背後から飛んできた何かが――手のひらほどの石が、獣の注意を引いたのだ。

 石が飛んできた方に視線を向けたトヴァンは、ぎくりと目を見開いた。

(嘘だろ)

 月光の下、こんな場所に一人立つには華奢すぎる見目の子どもが、ちょうど腕を振り抜いたような姿勢で立っている。空いた手は胸の辺りで握りこみ、目の前の光景を大きな目で見据えている。

 夜に溶け込む褐色の頬をうっすらと照らしているのは月明かりではなく、握った手から溢れる木漏れ日のような金色の光だった。

「に、」

 逃げろ!と声を出すより先に、魔物たちが一斉に向きを変え、光の方へと殺到する。トヴァンは全力で地面を蹴って跳躍し、取り落とした剣の柄を握った。

(間に合え)

 今にも子どもの腕を食いちぎろうとしていた獣の背を、上から下へ斬り伏せる。まだ動かずにいた子どもを背に回し、叫ぶように彼は言った。

「なんで戻って来た」

「聞きたい事があった!」

「はあ⁈」

 耳障りな声を上げ突っ込んできた翼を持つ魔物を、大剣を振って薙ぎ払う。刃先が掠めただけだったらしく、すぐに再び襲いかかって来た魔物と切り結びながら彼は今度こそ叫んだ。

「馬鹿なのかお前」

「盗賊抜けて何がしたいの」

「そんな場合じゃねえだろ今」

「オレを逃したのはどうして」

「そのまま逃げちまえばよかったんだよ」

「知ったこっちゃないみたいな顔してるのに、今だってオレの事もあの二人の事も庇ってるよね!」

「!」

 トヴァンの間合いを逃れた一体が、牙を剥き出して目と鼻の先に躍り出た。咄嗟に左腕を顔の前にかざし、痛みと衝撃に備えて歯を食いしばる。


 ――無数の目を歪ませていよいよトヴァンに飛びかかった魔物が、突如横から殴られたかのように吹き飛んだ。


「教えて!」

 いつのまにか子どもはトヴァンの前に飛び出し、神種のケースを左手で握りしめたまま右腕を大きく広げていた。掬い上げるように素早く腕を振り抜くやいなや、光を拾ってキラキラと輝く奔流が魔物たちを薙ぎ倒す。

 打ち付けられた獣たちの怒りの叫びに、水の渦巻く轟音が重なった。

「どりゃあ!」

 突き上げるように現れた水柱が空を飛ぶ魔物を弾き飛ばし、木の根のように地面を這う水流が地に立つ魔物の足を掬う。打ち上がった水飛沫は一つひとつが風に舞う葉の形をとり、獣たちに降り注ぐ矢と化した。

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