其ノ十 筵

 先日の御吟味方ごぎんみがたの御会合で聞いたお話では、この井伊いい様が、どう言う訳だか一番多くの御推薦をお集めになったとのこと、それはこの井伊いい様がお心延こころばえ優れ、御人望がお有りになる故でしょう。安子様はそのように御推測なさいました。


 本日は春先の不安定な空模様で、先ほどまで打ち付けていた冷たい雨が、今はいったん止んでおりました。染子様の御屋敷の門前には立派な晩生おくて蜜柑の木が有り、今を盛りとたわわに実を付けて居るのが見えました。安子様は前栽せんざいをくぐり、

「御免下さい。」

 と声をお掛けになられましたが、御返事は玄関からでは無く、縁側から続くお庭の方から聞こえて参りました。


 首に掛けた手拭いで濡れたお手を拭いながら、染子様は満面の笑顔を安子様にお向けになり、

「あら、雪組の牧野様では御座いませんか。本日は、あの、小さいお姫様は?」

 染子様は御入学の儀の時の事を覚えて居て下さり、花子様の事を話題にされました。

「本日は、知り合いに預けて来る事が叶いまして。」

 と安子様がお答えになられますと、

「まあ、そうなの。そしてまあ、お背中に、なんと可愛らしいお方が!」

 子供好きな染子様は、安子様の背におぶわれた生後四ヶ月の宗次郎そうじろう様のお姿に気付かれると、思わず顔を綻ばせなさいました。


「さあ、お上がりになって、と言いたい所ですけれど、今ちょうど雨の晴れ間で、お兄ちゃんを湯浴ゆあみさせて居たところだったのよ。」


 染子様はそう仰ると、お庭に敷かれたむしろとその脇に置いてある湯の入ったたらいの方に、慌ただしく駆け戻られました。


 むしろの上には、足が棒の様に細く、青白い唇をしたよわい九つぐらいの少年が座っており、突然の来客に戸惑って居る様な表情で、安子様の方をご覧になったので御座います。

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