其ノ十七 匙

 長い夜がようやっと明けました。お庭で飼って居る早起きの白犬のハチがお腹を空かせて、くうんと鳴く声で常盤井ときわい様がお目覚めになったのと、ほぼ時を同じくして明け六ツ(午前6時)の鐘が鳴りました。


 常盤井ときわい様は割烹着かっぽうぎに着替えて、ゆうべこうじから発酵させて置いた甘酒が良い匂いをかもしているのを蓋を開けてお確かめになると、診察室で横になっていらっしゃる安子様の方へそうっと近づいて様子をご覧になりました。


 安子様はすでにお目覚めになって居りましたが、やはり病み上がりのため視点が合わずぼうっとして、すすきみみずくの置いてある辺りを、横になったまま見るともなく眺めていらっしゃいました。


 常盤井ときわい様は甘酒を瓶から小皿に移し、さじを添えたものを安子様のとこまでお持ちになると、

「ああ、大分顔色が良くなりましたね。具合は如何ですか? この甘酒は召し上がれそうですか?」

 と優しくお尋ねになり、安子様が静かに頷くと、常盤井ときわい様はゆっくりと安子様の御口許おくちもとさじを差し入れると、少しずつその甘酒を患者に飲ませて差し上げました。


「あ、このすすきみみずく、御安産のお守りに一つ持ってお行きなさい。お産で苦しい時に、これを見れば少しは心休まる事でしょう。」


 常盤井ときわい様は、三杯目の匙をゆっくりと安子様のお口に当てながらこう仰いました。安子様はまだ力なく、常盤井ときわい様に感謝のまなざしで頷き返すだけでしたが、甘酒の温かく優しい味に、心がゆっくりほどけて行くのを感じておりました。


「そうそう、私は安子様のご主人の所に、事の次第をお伝えに行かなければならなかったのだわ。先生を起こしますから、安子様はそこで静かに寝ていらっしゃって下さいね。動いてはいけませんよ。」

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