其ノ二 角十字

「安子様! 安子様!」

 突然の事に動揺はしたものの、ご職業が看病中間かんびょうちゅうげん(看護師)でいらっしゃる常盤井ときわい様は、まず安子様のひたいに触り体温を確かめると、安子様の腕を取って脈をご覧になられました。


「これは……。」

 常盤井ときわい様は一瞬深刻そうに眉をひそめられると、 このように呟かれました。

「こんな時間にて下さる女科じょか(婦人科)など、この辺りに有るでしょうか……。」


 常盤井ときわい様の険しい表情をご覧になった太郎君たろうぎみが、涙で潤んだ瞳ですがるようにじっと常盤井ときわい様を見つめております。


「うちの医院は稚児医者ちごいしゃ(小児科)で、女科じょか(婦人科)ではないけれど……、この御様子だと一旦いったんうちへ連れて行くしかなさそうですね。」


 常盤井ときわい様はそう呟くと、ここのつき身重みおもでお体が大分だいぶん重くなられた安子様を、ご自身の背中におぶって、御実家が営む常盤井醫院ときわいいいんに運ぼうとお思いになり、身に着けておられた道行みちゆき(コート)をお脱ぎになられ、中に着ていた単衣ひとえのおそでくくられました。


 その時に御座います。


「安子さん、安子さんは居るかい? 見櫓みやぐらで見張っていた若い衆の話じゃあ、あんたの家の方角に、ほんの小さい小火ぼやが有ったって言うじゃあないか。そうだろ? あんちゃん。」


 常盤井ときわい様と二手に分かれ、一旦いったん二丁目の自身番屋じしんばんやに行ってから、安子様のお屋敷まで駆けつけて来たおりんさんが、一緒に来た、髪は火消ひけしらしい奴銀杏やっこいちょうに結い、角十字かくじゅうじつなぎの半纏はんてんを身にまとい、何人かの男衆おとこしゅうまで引き連れた大柄な男に向かって、こう話しかけられたので御座います。

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