其ノ二十二 盥

「あそこに水、手水鉢ちょうずばちが有る。」


 先ほど太郎君たろうぎみが眺めていた、満月が水に映り、ふち鍬形虫くわがたむしが止まって居たあの手水鉢ちょうずばちは、今もそのままに水を湛えて月を静かに揺らしておりました。


 白い襦袢じゅばんに着付け紐一本をお腰に巻きつけられたお姿の安子様は、脱いだ紺の矢絣やがすり単衣ひとえを、両手で勢い良くその手水鉢ちょうずばちの中にお浸けになられました。


 手水鉢ちょうずばちの水に映った淡黄たんこう色の月が、ころもで割り出された波紋で滲み、そのふちでのんびりと休んで居た鍬形虫くわがたむしも、驚いて大きな羽音はおとを立てて何処かへ飛び去りました。


 安子様は手水鉢ちょうずばちから濡れた単衣ひとえを取り出すと、渾身の力で上から下に向けそれを振ってお広げになり、もう既にまき五、六本にも燃え広がって居る飴色あめいろの炎の上に、ばさりとお被せになられました。


「ああ、これで、これで火は消えたでしょうか。」


 安子様は、匂いと煙で少し気が遠くなりながらひとりごちると、上げた目線の先には、心配そうなお顔で水の入ったたらいを抱えた、小さくて頼り甲斐のある我が息子、太郎君たろうぎみの姿がそこに有ったので御座います。

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