其ノ五 川の字

 安子様は、御夫君ごふくんのお気が変わらないうちにと、手際良く出掛ける支度したくをお始めになられました。

「ええと、花子の襁褓むつきはこちらに置いておきますね。今はちょうど襁褓むつきと自分でかわやに行くのと端境期はざかいきなので、起き出して来て自分でかわやに行きたがったら、連れて行ってあげて下さい。」


「ああそうそう、もうつぎにお布団を敷いて置きましょうね。」

 安子様はばたばたと、普段も寝室として使っているつぎに行き、眠っている花子様の小さなお布団を囲む様に、御夫君ごふくんの布団と太郎君たろうぎみの布団を引き出して来て、膨らんだ腹部を気になさりながら川の字にお敷きになられました。


 安子様が慌ただしく割烹着かっぽうぎを脱いでいらっしゃると、暮六くれむツ(午後6時)の鐘の音が町に鳴り渡りました。

「ああ、もう行かなければ。そうそう、提灯ちょうちん納戸なんどにあったかしら。」


 安子様が納戸なんどから提灯ちょうちんを一つ取って来て、ぱららと広げて火を灯されますと、夕闇の薄暗い玄関が、橙色だいだいいろの暖かい光に満たされました。


「お母様、お母様は夕餉ゆうげをお召し上がりにならないのですか?」

 と太郎君たろうぎみが安子様にお尋ねになられますと、

「ああ、私なら大丈夫。先ほど作りながら小松菜の煮たのをつまませて頂きましたから。」


 お優しい太郎君たろうぎみは、御妊婦なのに皆の心配ばかりして、ご自分は食事もろくらずに慌ただしく出掛けようとして居る御母君おははぎみの御背中を見守りながら、今宵はご自分がしっかりしなくては、とお思いになられたのでした。

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