其ノ二十三 徒労感

 嗚呼ああ、もしこの最後の一枚の蝋原紙ろうげんしが、汚れたり破れたりしていたならば……。仮に無事だったとしても、お子達の事を気に掛けながら、私はもう一枚を書き損じなく書き終える事が出来るので御座いましょうか。もしまた書き損じでもしたら……。


 そのように重圧を感じて居られる安子様は、追い詰められてお苦しいお気持ちになられました。


 それにしてもこうした度重なる困難、それを子供に怒ったって仕方がない、それは母親達全員が分かっていること。しかし漂うこの徒労感とやるせなさ、積み木を積み上げても積み上げても崩れて振り出しに戻る様なこの虚しさ、子供は確かに日々成長して居るし、次世代を育てる事、これは大変意義のある営みに相違ない。


 ただ子育て中、余りにも畳み掛ける様に、日々絶え間なく起こるこの手の困難と徒労感に、母親達が子育ての喜びを実感出来る速度がまるで追い付いて行かない。この気持ちの正体は、一体何なので有ろうか。

 安子様の心の葛藤がお聞こえになったのか、安子様のお腹のお子は元気に中から腹部をお蹴りになりました。


 その時、

「安子様、最後の一枚の蝋原紙ろうげんしは、離れた所に置いて有ったので無事でしたよ! まあ、木枠きわくの中に有った物はもう傷んでいて無理そうですが。

 此度こたびは本当に、私の不注意でこんなことになってしまい、大変申し訳ございません。」

 常磐井ときわい様はそう仰って深々と頭をお下げになりました。


「いいえ、常磐井ときわい様、頭をお上げになって。子供がした事ですから。」

 安子様は、常磐井ときわい様にこう仰ると、意を決してこうお続けになられました。

「分かりました。この最後の蝋原紙ろうげんし、私が必ず書き上げましょう。」



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