其ノ十七 液瓶

 安子様のそのお声を聞いて、紙を数えたり、おでん方様かたさまに申し付かっていた諸々もろもろ雑多な御作業を手分けしてなされていた他のお母様方が、驚いて駆け着けました。


「ああ、これではちょっと、このまま刷りに回すのは無理そうねえ」

 常磐井ときわい様がその蝋原紙ろうげんしを手に取ると、整った美しい文字が几帳面に書かれたその下に、『御推挙ごすいきょ奉り候』の『候』の文字の最後の払いの部分が、一寸(3cm)ほど太く斜めに流れてしまって居るのを見て取りました。


 方々かたがたは、確か何処かに蝋を溶かして修正するお液があったはず、と手を尽くして探されましたが、ちょうどどこかの御係おかかりが使い切ってしまっていた様で、空の液瓶えきびんが一本見つかったのみに御座いました。


 大人達の緊迫した空気に、花子様はただゞ大きな声で泣くばかりでしたが、そのご様子をご覧になって安子様は、子供に罪は無いとは言え、ああ、泣きたいのは私も同じですよ、と心折れる様な思いで御座いました。


「大丈夫、大丈夫。蝋紙ろうがみはあと二枚も御座います。もう一枚、書かれれば済む事。ただ、そうねえ、お子様方は……。」

 と常磐井ときわい様が仰ると、

常磐井ときわい様、私がつぎで、うちの子と花ちゃんを見ておりますよ。牧野様、安心して御作業に専念なさいな。」

 この様に、芳子よしこ様のお母様が仰って下さりました。


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