其ノ六 御入学の儀

 染井吉野そめいよしの桜が見事に咲き誇る春の朝に御座いました。小さいお体と同じくらいかと見紛みまごう程の大きな背負子しょいこ(ランドセル)を、意気揚々と担がれた太郎君たろうぎみは、今は数え七つ(6才)とは言え、行く末はさぞや頼もしい若武者わかむしゃになられるであろう、安子様はそう思い、目を細めて門前に立つ我が息子に見とれておりました。


 太郎君たろうぎみは、安子様が身重みおもの体で一通り揃えました御衣装に身を包み、そのお背負子しょいこ(ランドセル)には、寺子屋てらこや(小学校)の指定する寸法にて、安子様がご家族が寝静まったのを見計らい、夜なべしてお縫いになられた巾着袋きんちゃくぶくろなどが入っておりました。


 寺子屋の門前にも、春の朝陽あさひに照らされた見事な桜木があり、この頃は少しはらはらと舞い散る花びらがあるのも、またおもむきあるものにございました。


 このようなき日、夫婦揃って迎えたいものと安子様は思っておられましたが、ご夫君ふくんは、育児は女の仕事、その様な平日、男がおもて(会社)を休める訳が無かろうと、にべもなく仰られましたので、安子様はそれ以上何も申し上げませんでした。


「せめて本日、数え三つ(2歳)の花子のお手を引いていただけたら、それだけでどれほど助かる事か。」


 安子様はそう思われたものの、空しい想像をするのは止めよう、と思い直されました。気を取り直さなくては、とお思いになったその時、寺子屋の山門さんもんの脇にある名もないほこらが目に入りました。

「どうかこの太郎が、健やかに、そして愉快に、この寺子屋での年月を過ごせますように。」

 安子様はほこらぬしに両手を合わせると、丁寧にほこらに向かって御一礼なさり、桜が舞い散る中、ふたたび花子様の御手を取って歩き始めました。


 そこへふと、太郎君たろうぎみ背負子しょいこに花びらが一枚ついた事にお気付きになり、その右手は、今にもどこかへ駆け出しそうな幼い花子様の御手おてを取っておりましたので、安子様は左手にて、その背負子しょいこについた花びらを、優しく払って差し上げたのでした。

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