第九話 童子切安綱

 上野寛永寺の鐘がうまの刻を告げた。その寛永寺奥の客殿で、ひと組の男女が膝を交えていた。

 小坊主が絹の打掛を羽織り、脇息にもたれかかった大奥御上臈にうやうやしく茶を差し出す。無論、上臈が上座である。

 次に、黒羽織・袴姿で下座に控える武士の前にも茶を置いた。

 障子の向こうでは、風に桜花が舞い散っていた。


 小坊主の足音が遠のいてから、女人が口を開いた。

「浅右衛門、例の件じゃが、かのお方はすでに大坂をご出立とか」

「はっ」

「供の者、百五十余名と聞いておる。まずは江戸城をめざして、東海道をゆるゆると参られよう」

「はっ」

「下総の結城家に入る前に、家康公、秀忠公にご挨拶をせねばならぬでのう。して、どこで待ち伏せるのじゃ」

「叔母上とて、それは申せませぬ」

 上臈は家康の寵を一身に受け、今や大奥取締役として権勢を誇る阿茶の局であった。浅右衛門にとっては、叔母にあたる。

「しかしながら、相手は多勢。そなたの弟子の数などたかがしれておろう。少数精鋭と言えば聞こえはよいが、そのような寡勢かぜいでどのように討ち取るというのじゃ。策を申せ」

「それも申せませぬ」


「ふふっ。用心深いことよ。ま、よいわ。そなたは真剣にかけては江戸随一の剣客。万が一にも討ち漏らすことはあるまいて」

「………」

「ときに、かのお方は、家康公から童子切安綱という稀代の名刀を拝領しておる。それは存じておろう」

「はっ、源氏累代の宝剣かと」

「左様。凄まじい切れ味と聞いておる。仄聞したところによると、かつて足利将軍義輝公が三好三人衆の軍勢に襲われた際、その太刀をふるって多数の下郎を鎧ごと斬り捨て、刃こぼれひとつなかったということじゃ。おそらく、そなたが持てば、罪人の六つ胴くらいは豆腐を切るようにたやすく一刀両断できよう」

「………」


 言葉をひかえ、茶をひと口喫した浅右衛門の顔をちらっと見て、阿茶の局が問いかける。

「その太刀、そなた欲しいであろうの。ふふっ」

 浅右衛門が湯呑を茶托にゆっくりと置いて、叔母である阿茶の局の姿を半眼でとらえた。

 池の穿うがたれた回廊式庭園で水鳥の飛び立つ音がした。

 次の瞬間、浅右衛門が太刀を手にとり、鯉口を切った。

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