マリンスノー

もりひさ

マリンスノー


 消えかけている蛍光灯の明かりを浴びて、一匹のクラゲが地下商店街に迷い込んだ。天井に擦れそうになりながら、長く伸びた透明な触手を運んでいく。透明な海水によって作られた全身に、連なったシャッターの壁が透けていた。

 明かりは蛍光灯が付いている場所とそうでない場所によって、より暗くなったり反対にうっすらと眩しくなったりする。通り抜けてきたクラゲはいつの間にか、目の前にある「鳥肉専門宮川商店」の錆びた看板に引っかかり、身動きが取れなくなってしまっていた。

 クラゲを助けようとしたのは、この地下商店街に住んでいる少年だった。乾いたサンダルの音が商店街の奥へと響いていく。ノースリーブの白い服が看板の下で止まった少年に合わせて、わずかに揺れた。

 クラゲが引っかかってしまった場所は、少年が飛び出してきた店の前だった。店内から溢れてくる暖色の明かりが、看板の辺りまで届いている。少年が飛び跳ねたり背伸びをしたりして、クラゲの手を取ろうとすると、錆びたシャッターにその影が伸び縮みした。

 しばらく少年がクラゲを救出しようとしていると、別の生き物がやってきた。看板に引っ掛かっているクラゲの仲間と、デメニギスだった。

「おーい」

 少年は大きな声と共に両手を振って、こちらに泳いでくる二匹に合図を送る。

「手伝ってよ」

 二匹は店の前でゆっくりと泳ぐのを止めた。少年が状況の説明をしている間、仲間のクラゲは店舗内と外を行ったり来たりし、デメニギスは少年のジーパンの付近をじゃれつくように回遊していた。そして少年が一生懸命に説明をしている間に、するりとクラゲは看板から抜け出した。

 少年はそれを見て、安堵の息を吐いた。母を呼ぼうと思ったが、言葉が喉の奥に引っかかってしまって、咳をするように「待っててね」とクラゲ達に告げた。

 少年は店の奥に入って、魚達の餌を探す。しかし見つかるのは、少年の背丈の倍ほどに積まれ、床にも敷き詰められた段ボールとかき置かれた母の手紙だけだった。ふと少年が手紙を開けると「帰ってくるから、待っててね」と書かれている。少年は少し笑って頷いた。そして手紙を丁寧にしまって、手前の段ボールの上に戻すと再び餌探しに戻った。

 餌は手紙が乗せられている段ボールの中に置いてあった。少年はまだクラゲ達が表にいるのかを心配しながら、手に餌を何粒か落とす。クラゲもデメニギスも一つずつ丁寧に食べた。クラゲは触手で少年の手から餌を絡め取り、デメニギスは器用に口でエサを掬い取った。

 全ての餌を食べ終えると、少年はそれぞれの身体を包容する。少年の細い腕に包まれると泳いでいた魚達は途端に無抵抗になる。少年が顔を擦り付けて、匂いを嗅ごうとしても抜け出そうとすらしない。

 ぱしゃりと、デメニギスの身体に少年の顔が落ちる。臓器と呼べるものはどこにもなく、透明な鱗の底で少年のジーンズが揺れている。

「ぷはっ」

 顔を上げると、少年の口元に潮の香りが流れてきた。デメニギスを放して、どちらかのクラゲを胸元に迎えようと天井を見上げる。すると電灯の切れ間から、埃が舞っているのが見えた。

「雪だ」

 母が昔読んでいた絵本を少年は思い出した。埃がその身には受けきれないほどの明かりに照らされて、床へと落ちていく。クラゲが引っかかって抜け出した拍子に、看板の上から降りてきたのだ。

 少年は手に器を作り、雪を捕まえようとした。すると商店街の奥の暗がりから、マッコウクジラが飛び出してきて、少年の顔を一瞬だけ浸した。

雪は海という場所の奥底に降るのだと、母の声が耳元で囁く。マッコウクジラが背に受けた日差しの温もりは、少年の口元に微かに残った。

「お母さん。ここは海の底なのかな」

 その囁きに少年は聞いてみる。少年は喉の奥で消えようとしている温かさを、身体の底に染み込ませた。クラゲ達が届けてくれた母との記憶を、ひっそりと抱き寄せる。

 囁きはマッコウクジラの唸るような低い声の中に吸い込まれて、地下商店街の奥へと連れ去られた。

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マリンスノー もりひさ @akirumisu

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