アラスカの雪解け
もりひさ
アラスカの雪解け
ガラス窓を一枚隔てた遠い雪原の向こうで、デナリの山峰が私を待っていた。病室のカレンダーは四月に貼り変わっている。この前まで二月だったのは、看護婦がカレンダーを捲るのを忘れていたからなのだろう。私は沈む思いで、カレンダーに写された春のデナリに視線を当てていた。
アメリカのアラスカ州デナリ国立公園内に位置する北米最高峰の山。登山計画を立てたのは二月頃のことだった。登山シーズンは四月の半ばから七月まで。私と仲間は四月の上旬にバンクーバーを経由してアンカレッジに入った。そこでクレバスからの脱出など、六千メートル級の雪山への登山訓練が行われたが、全員が難なくクリアし準備は完璧だった。
私の体調に異変が生じたのはベースキャンプへ荷上げ開始の二日前だった。すぐに私は公園内の病院に送られて、検査を受けた。幸いにも高山病ではなかったが、隔離と療養に一ヶ月はかかると医者に告げられた。
四月とはいえ、アラスカに残る冬はまだ厳しい。ここから日差しが徐々に雪を溶かし始め、カリブー達が移動し、ハクガンという渡り鳥がやってくる。もっともそれは現地に住んでいる山岳トレーナーに聞いた話で、自分の目で確かめたものではなかった。山へ進む道中は雪と氷河に閉ざされていて、芽吹きの季節はまだ程遠いように思われた。
日本では見たことがないような巨大なストーブが病室の中央に鎮座している。最初は個室に入っていたが、隔離期間を終えると二人分のベッドがあるこの病室に移された。
同じ病室にいたのはかなり年老いた男性だった。一般的に患者が着るようなピンクや青の病衣を着ずに、いつもシンプルな柄の赤いセーターを羽織っている。時折見舞いの人も来ているようだが、あまり会話が弾んでいるようには聞こえなかった。
「あと二週間くらいかな。早く戻れるといいんだけど」
病院内にある国際電話から母にそう告げる。母は受話器の向こうで、納得したようなしてないような曖昧な返事をして、病院内での生活を矢継ぎ早に聞いてくる。
「ご飯、食べられてるの?」
「うん、おいしいよ。ちょっと量が多いけど」
受話器を置き、溜息をついて病室に戻る。登頂を知らせる手紙と頂上で撮られた仲間達の写真が、ベッドの側にある机で日差しを吸い込んでいる。退屈だった。もしこうなると知っていたら、私はこの場所に来なかったのだろうかとぼんやり考えた。
「エスキモー」
カレンダーの端に小さく書いてある英語の綴りを、口に含んで言葉にする。すると隣から「イッツミー」と微かな声がした。ベッドを覗くと老人が背中をシーツに預けて、仄かに唇を動かしていた。
「旅人か」
聞き慣れない舌触りの言語だった。少なくとも英語ではない。私は黙って頷くことしか
できなかった。私とその老人だけが病室にいた。廊下から足音もせず、静かでゆったりと
した時間が流れた。
「私達が冬を越せるのは、カリブー達のおかげだった。奴らを狩ることで、冬を越せる。来ない時は、ヤマアラシの肉や秋に取ったブルーベリーを、食べて凌いだ」
息が続かないのか、老人は何度も言葉を切った。それでも錆びついたようなその声だけは、ずっしりと私の鼓膜に重なっていった。
「それでもダメで、多くの人が、飢えて死んだ」
いつの間にか私は頷くことも忘れて、老人の顔に視線を向けていた。ほんの僅かに開いた目が潤んでいた。細く浅黒い指が何かを握ろうとしている。
「そんな時にカリブーが来ると、大いに喜んだ。男達は柵のある場所まで、カリブーを追い込んで、みんなで食べた。」
老人の頬が僅かに緩む。彼の唇から溢れてくる言葉の中で、何が起こっているのかは分からなかったが、私も自然に微笑んでいた。
「雪解けは、そうして訪れる。英語ではSnowでも、私達にとっては、もっと沢山の雪がある。自分の暮らしを、私はもっと自分の言葉で伝えたい」
老人の握られた手に自分の手の平を重ねる。すると老人はまた小さく笑った。
スノウという単語に糸を引かれるように私は窓の外を見る。暖かい日差しを吸い込んだ四月の雪が、カレンダーの中にある遠いデナリの山頂まで、続いているような気がした。
アラスカの雪解け もりひさ @akirumisu
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