月の電池
もりひさ
月の電池
月の電池を抜きにいく。青年は夜を落とすために屋根裏部屋へ続く梯子を下ろした。ついさっきまで青年を引き止めていたベッド上には、布団が綺麗に折り畳まれている。すぐ横の机には、教科ごとに積まれた参考書と高校の制服が、机からはみ出すことなくぴったりと収まっていた。
梯子を登り、錆びた鉄製のハッチを閉じる。視線を少し上に向けると、すぐに天井に髪が触れた。屋根裏部屋は三角形の構造で、ハッチは右側の最も狭い場所にあるのだ。そして頂点には、人がようやく一人入れるくらいの天窓があり、そこから降り注ぐ月の光の他には明かりが存在しない。まるで世界中の夜の静けさを拾い集めてきたかのような場所だった。
最初は体制を低くし、木の床を這いながら天窓に向かう。青年はできる限り最短ルートを、月明かりに当てられた床になぞる。傷んだ木のささくれに注意しながら、この部屋の唯一スポットライトが当たる場所へと青年は向かう。青年が少しでも明かりの奥に目をやると、そこには果てのない静寂があり、少年を引きずりこもうとしていた。
天窓から垂れる縄梯子は何度も踏み込まれて、だらりと伸び切っていた。しかしどんなに古びていても、青年は縄梯子が千切れない登り方をちゃんと知っていた。中指と親指で縄の先端を挟んで引っ張り、今日の具合を確認する。特に雨が降って、縄がしけている日は細心の力加減が必要だった。
床に溢れる月の光に青年の影が落ち、奥から伸びてくる部屋の影と何度か繋がった。一つになる度に、静寂は青年を誘い込もうと、夜空に見つからないように暗闇を伸ばしたが、やがて青年の影は天窓の奥へと消えてしまい、微かに揺れる縄梯子だけが部屋に残った。
月明かりが覆い被さり、街の息遣いが微かになっているのを、青年は遠目で見ていた。あと数時間で世界を朝に明け渡さなくてはいけない。街の更に奥からかかる星空に、ペルセウス座の流星群が降っていた。
街に背を向け、足をくっつけてようやくバランスが取れるくらいの屋根の上で、青年は立ち上がる。月はもう一つ腕を伸ばして、ようやく届く場所にあった。両手を使えば手の平に乗せられるほどの大きさだった。息を少しだけ吸い込んで吐き出し、つま先を天井と一つにする。踵から徐々に足を浮かせても、青年の身体は揺らめきさえしない。氷上のバレリーナのように、手の指先から天井に触れている僅かな部分まで、全てが青年の思うままに動いている。
晴れの海という名のクレーターが月の電池を収めている蓋だった。指先で丁寧に灰色の砂を払い、表面を外す。外の空気に触れなければ、誰にも気付かれないくらい小さな動作音を立てている双子の円柱が姿を表した。
青年は中指と親指で、まだ動いている電池をそっと包み込む。どちらも青年の手の中でしばらく動き続けたが、やがて表面に溶けていく、手の平の温もりに当てられてぐっすりと眠った。
月は上の方から少しずつ明かりを落として、白く透明になっていった。街は深い青に包まれ、仄かなオレンジが空に忍び込んでくる。それを見届けてから青年は縄梯子に向かい、既に夜の静寂の気配が消えた屋根裏部屋へと降りていく。
机に用意していた制服を着ていると、朝のニュースが下の階から聞こえてきた。
「今朝、月面着陸を目指すアポロ二十二号が宇宙センターを飛び立ちました」
音量が下がり、遠ざかるアナウンサーの声。青年は少しだけ笑いながら、自分の手の中でひっそりと眠っている双子の電池をポケットにしまった。
月の電池 もりひさ @akirumisu
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